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大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区)(市史跡)[二日市中央]
大宰府政庁が現在の都府楼跡(とふろうあと)といわれている場所に置かれたのは、天智(てんじ)2年(663年)に我が国が朝鮮半島の白村江で唐・新羅に大敗した直後のことです。以降、大宰府は軍事拠点としてだけではなく、九州を統括する重要な役割を持ち、政治・経済・文化の面でも強く中央の影響を受けるようになりました。
大宰府では、平城京や平安京と同じように、南北22条(約2.4キロメートル)、東西24坊(約2.6キロメートル)に及ぶ碁盤の目のような方形の都市計画がなされました。その条坊の基準となったのが、政庁の前面から南へ延びる幅35メートルもある大きな道で、朱雀大路と呼ばれました。
この遺跡は、朱雀大路の西側溝の一部にあたる重要なものであるため埋め戻され、指定して恒久的に保存されることになりました。
なお、史跡名の「立明寺地区」は、旧大字二日市内にあった小字名に基づくものです。
『筑紫野の指定文化財』より