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紙本著色山家御茶屋指図(市有形文化財)[山家]
この指図(見取り図)は、文久(ぶんきゅう)2(1862)年に制作されたもので、山家宿下代(げだい)の須藤次八が受け継いできただものです。
御茶屋とは、江戸時代、藩主が参勤交代や領内の見回り、狩りなどの時に、宿泊や休憩に使っていた施設のことで、領内の主な街道筋に設けられていました。山家宿の御茶屋は、『黒田家譜(かふ)』には「山家の別館」と記されています。主屋(おもや)の総床面積は約160坪とかなり広く、長崎街道筑前六宿(むしゅく)の中では一番大きなものでした。
山家宿の御茶屋ができた年代は、正確にはわかっていません。しかし、『黒田家譜』には、明暦(めいれき)2(1656)年に福岡藩主黒田光之(みつゆき)が、甘木(あまぎ)にある三奈木(みなぎ)黒田家の館を訪問した際、途中で山家宿の御茶屋を利用したことが記されています。よって、そのときにはすでに御茶屋が存在していたものと考えられます。
明治維新後、御茶屋は使用されなくなり、解体されて、その跡地は畑と宅地になりました。
(参考『ちくしの散歩』山家宿の御茶屋)
紙本著色山家御茶屋指図