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1-1.筑紫野市の歴史
1.筑紫野市の歴史
筑紫野市は、福岡平野と筑後平野の接点に位置し太古から交通の要衝として多くの物や人々が行きかい、発展してきました。
旧石器時代
野黒坂遺跡や峠山遺跡などでこの時期の狩りに使用された石器が発見されており、古くから人々が狩猟生活を営んでいたことがわかります。
縄文時代
旧石器時代に続く縄文時代早期、原(はる)遺跡で石組みの炉(ろ)と押型文(おしがたもん)土器などが見つかっています。山裾や微高地で暮らしていたようです。縄文時代前期・中期は市内で遺跡は見つかっていませんが、後期から晩期になると他の遺跡に混ざって遺物が発見されています。
弥生時代
弥生時代前期や中期には丘陵上で集落や墓地が営まれています。墓地からは前漢鏡をはじめ朝鮮半島製のヤリガンナ、一括埋納(まいのう)された銅戈(どうか)、ゴホウラガイやイモガイ製の貝輪なども出土しており、大陸や南西諸島とも交易していたことがうかがえます。
弥生時代後期になると次第に丘陵から平野に移り住みます。牛島・阿志岐・吉木にかけての御笠平野、立明寺周辺などで遺跡が確認されています。
古墳時代
数多くの古墳が築かれました。なかでも、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した古墳時代前期の原口(はらぐち)古墳や、国史跡で装飾をもつ古墳時代後期の五郎山(ごろうやま)古墳は著名です。
古墳時代の終わりごろ
白村江の戦いののち、筑紫野市周辺には大宰府(だざいふ)、水城(みずき)、大野城、基肄城(きいじょう)が築かれました。基肄城は基山(きざん)(筑紫野市・佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山町(きやまちょう))に築かれた古代山城で、筑紫野市には北帝門跡、東北門跡などがあります。
また、時期ははっきりしていませんが、御笠平野に突き出す宮地岳には阿志岐山城(神籠石系山城)が築かれます。
奈良時代
大宰府は軍事的役割から政治・経済的役割を担う政庁として整備され、筑紫野市の北部を含む範囲で「条坊制」という都市計画が行われていたと考えられています。発掘調査でも、鴻臚館(こうろかん)から大宰府へ向かう官道(かんどう)、大宰府の中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)と考えられる道路跡、大宰府から米ノ山(こめのやま)峠を抜け豊前に至る官道、その最初の駅で万葉集にも詠まれた蘆城駅家(あしきのうまや)の可能性がある遺跡が発見されています。
平安時代末期から鎌倉時代
経済活動が活発であったのか、中国・朝鮮半島製の陶磁器や美濃・京都・備前などの国産陶器が見つかっています。
戦国時代
筑紫(ちくし)氏・高橋氏(大友氏勢力)と島津氏の戦いが繰り広げられ、市内の山に多くの山城や館(やかた)がつくられました。市内にはこの戦いでの逸話も伝わります。
江戸時代
動乱の時代が過ぎ、黒田家が福岡(筑前)に移ります。その指揮下において長崎街道や薩摩街道、日田街道が整備され、二日市宿や、筑前六宿(むしゅく)の山家(やまえ)宿、原田(はるだ)宿が設置されます。多くの人やモノが行きかい、その後の近代、現在に至る筑紫野市の原型が作られました。