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高橋紹運首塚伝承地(市史跡)[二日市北]
高橋紹運は、戦国時代末期の豊後国大友氏の武将です。吉弘(よしひろ)鑑理(あきただ)の子で、はじめは吉弘鎮理(しげただ)といい、元亀(げんき)元年(1570年)、高橋鑑種(あきたね)追放後の高橋家を継いで鑑種(しげたね)(入道して紹運)と改め、岩屋・宝満両城主となりました。
天正(てんしょう)14年(1586年)7月、岩屋城で薩摩国島津氏を迎え撃つ高橋紹運と配下等は、数日におよぶ激戦の末に敗死しました。この首塚がある二日市北は、岩屋城の眼下にあたり島津氏の本陣が構えられたと伝わります。自害した紹運の首は島津軍により実検(じっけん)が行われた後、この地に埋葬されたと伝わっています。
紹運塚のことは貝原益軒(かいばらえっけん)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にもみえ、古くから注目されています。また『筑前国続風土記附録(ふろく)』には「村の艮(うしとら)に茱原(ぐみはら)あり。東西四間南北五間許(ばかり)也。昔は封塚ありしといへとも今ハなし」。『福岡県地理全誌』には「数十年前、塚ノ四方ヲ石ニテ畳メリ」とあり、現在の首塚の姿になっています。
『筑紫野の指定文化財』より
高橋紹運首塚伝承地