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『正徳四年ヵ「二日市宿庄屋覚書」(河口屋水城正五郎写)』(市有形文化財)[二日市中央]

記事ID:0001882 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

正徳四年ヵ「二日市宿庄屋覚書表紙正徳四年ヵ「二日市宿庄屋覚書裏表紙

 本史料は、山家宿郡屋守(ぐんやもり)水城氏の四代目にあたる水城正五郎が、慶応(けいおう)3(1867)年長男に家督を譲ったあとに書き写した写本で、原本は、慶長以来御笠郡二日市村庄屋を代々世襲して帆足(ほあし)甚三郎が、庄屋役引退後の正徳4(1714)年に、自家に伝わる古文書や古老の話、自身が関与した二日市宿の事件等を記録したものです。

 本史料には、

  • 長崎街道成立以前は、上方(かみがた)・長崎方面、豊後方面との通行に二日市を経由していたこと。
  • 冷水(ひやみず)峠開削の経緯、山家宿、内野(うちの)宿設置の経緯。
  • 原田(はるだ)宿の設置が寛永(かんえい)21(1644)年頃だったこと(他に検証史料がない)。
  • 二日市が天正(てんしょう)19(1591)年には伝馬の用意を命じられており、山家宿の設置より20年早く宿駅として成立していたこと。
  • 天満宮文書にも記載されていた「二日市場」が寛永17(1640)年に再興し、にぎわっていたこと(他にこのことに関する史料がない)。

 などが記録されています。

 また、伝承ではあるものの、紹運(じょううん)塚、川船、六(ろく)地蔵、鯰石(なまずいし)、二日市八幡宮銀杏樹(いちょう)などの記述もあり、筑紫野市の地域史に欠かせない史料です。

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