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大宰府朱雀大路と湯大道[二日市西]

記事ID:0001796 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

 大宰府政庁跡からまっすぐに南へのびる中央大路(朱雀大路)は、古代の都市計画の骨格ともいえるものですが、これまでの発掘調査で、その幅は35メートルから36メートル(平城京朱雀大路の約半分)であったことが判明しています。

 筑紫野市役所の南に「湯大道」という南北に細長い小字名が残っていますが、これは朱雀大路から都城の南郭外へとつづく古代官道(かんどう)のなごりと考えられます。

 平成22(2010)年に筑紫野市教育委員会が作成した『筑紫野市古地形図』(※)によると、北流する鷺(さぎ)田(た)川(がわ)の河道が直線的にのびる場所が数ヶ所あり、朱雀大路の南延長線上に当たっています。現在は市街化してわかりにくくなりましたが、筑紫野市役所の西方を二日市温泉の方向へまっすぐにのびた道があった可能性があります。

 この道が行き着く先、古代の二日市温泉には何があったのでしょうか。どのような風景だったのでしょうか。

 神(じん)亀(き)年間(724年から729年まで)、大(だ)宰(ざいの)帥(そち)として赴任していた大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)は「湯ノ原に鳴く蘆(あし)田(た)鶴(づ)は我がごとく妹(いも)に恋(こ)ふれや時(とき)わかず鳴く」(『万葉集』巻6-961)という歌を残しています。奈良時代、この地に鶴が飛来したかどうかはわかりませんが、旅人が二日市温泉(古名は次田の湯)への行き来にこの道を歩んでいたものと考えられます。

 ちなみに、「湯ノ原」という地名も二日市温泉の東方に小字名として残っており、興味をひかれます。

※『立明寺地区遺跡 C地点第1次発掘調査』筑紫野市文化財調査報告書第100集に収録しています。

二日市温泉上空
二日市温泉上空から北を望む(大宰府政庁跡から断続的に道路が延びている)

鷺田川周辺
鷺田川から北を望む(遠方に四(し)王(おう)寺(じ)山(やま)がみえており、大宰府政庁跡と一直線であることがわかる)

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