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黒田家 ゆかりの地 筑紫野

記事ID:0001535 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

黒田官兵衛(孝高、如水)は軍師として類いまれな知略と先見性で戦国時代を生き抜き、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、三人の天下取りを大きく左右しました。関ヶ原の合戦で戦果を挙げ、筑前一国を拝領し、息子長政とともに黒田52万石といわれる福岡の礎を築き上げました。下克上の乱世で難局打破ができたのは、官兵衛・長政の才覚に加えて、二人の主君と強い絆で結ばれた精鋭黒田家臣団24人「黒田二十四騎」の存在がありました。筑紫野市にはそのうちの「桐山信行(丹波)」、「小河信章(伝右衛門)」ゆかりの史跡などが残っています。“福岡藩の藩祖”官兵衛そして黒田家の名残が漂う筑紫野をご紹介します。

黒田如水像
『黒田如水像』福岡市博物館所蔵

二日市温泉と黒田官兵衛(孝高、如水)

軍師・知将としての側面だけではなく、和歌や茶の湯を嗜んだ文化人でもあった官兵衛は和歌・連歌の神様としても仰がれていた菅原道真公を崇敬し、晩年の一時期を太宰府天満宮のそばで過ごしています。太宰府に隠棲中であった官兵衛が二日市温泉に浴していたとされる逸話が上野国館林藩(現群馬県館林市)の藩士・岡谷繁実が著した『名将言行録』に記されています。「孝高が牟左志(むさし)の温泉に滞留の時、或日千石取の士、千菜一把を」という記述です。
※牟左志の湯とは武蔵温泉、現在の二日市温泉の旧名です。
現代文に直してみると
「孝高、牟左志(現二日市)の温泉に滞在中のときの話である。ある日、千石取りの武士が干した野菜一把を家来に持たせて、孝高のご機嫌伺いに参上した。孝高は、その手土産が質素であり、よく倹約できていることをほめて大いに喜んだ。それから2日から3日して、七百石取りの者が自ら一升樽を携えて来たので、またしても孝高は大いに喜んだ。4日から5日過ぎたころ、百石取りの者が新鮮な鯛を白木の折箱に詰めて呈上した。孝高はこれを見ても喜ばなかった。そして、『汝は小禄の身分でありながら、このように不相応な振る舞いをしていては、従者たちへの給与にもこと欠くであろう。武具も揃わず、家族を養育するのも難しいはずだ。その結果、ついには主君への恩義をも忘れてしまうことになるであろう。』と叱りつけた。この者は大いに当惑し、『お殿様のお考えには恐れ入りました。この肴は折箱とともに親友の町人から今朝もらったものでございます。お殿様にいかがであろうかと思い、失敬とは存じながら献上させていただきました。』と申し上げた。これを聞いた孝高は、『そうであるならば、その白木の折箱は持ち帰って町なかの店へ売り払え。わしの宅へ置いておく必要はない。』と言われたそうである。」
質素倹約を勧め、『我人に媚びず富貴を望まず』という言葉を信条とした孝高の人物像を伺えるものです。菅原道真公ゆかりの天拝山の麓に湧出る温泉で、日々浴しながら身も心も癒したのではないでしょうか。
また、二日市温泉には温泉奉行を置き、黒田藩主が入湯するための『御前湯』を設けました。
現在もその名は残り、公衆浴場として親しまれています。

御前湯
​現在の『御前湯』

二日市温泉
現在の『二日市温泉』

二日市と黒田官兵衛(孝高、如水)

古代より政治・経済の要地として栄えてきた二日市と官兵衛との関わりを示す話が『二日市宿庄屋覚書』におさめられています。
豊臣秀吉の九州入りの際、筑前領主であった小早川隆景が二日市宿に備えてある伝馬(伝令、飛脚、輸送に用いる)について制札(禁札)を出しました。その一つに『黒田官兵衛、毛利勝信、加藤清正、小西行長から出された文書が届いたときには小早川隆景へ伝馬で堅固に送り届けること』などとあり、二日市が交通の要所であったことがうかがえます。また、その頃二日市の庄屋であった帆足新左衛門が官兵衛の陣所であったと思われる名護屋城(肥前)?に味醂酎の樽2つと鮑10個を贈ったことに対して、官兵衛からの礼状が記されています。二日市は黒田藩が日田街道の宿場としてからも経済・交通の要衝として発展し、今もそのころの面影を残しています。

二日市宿庄屋覚書書
『二日市宿庄屋覚書』二日市八幡宮所蔵

豊臣秀吉から兜を拝領した『黒田二十四騎』の一人 
桐山信行(きりやま のぶゆき)(丹波(たんば))(1554年から1625年)と山家(やまえ)宿

黒田二十四騎図
​『黒田二十四騎図』 福岡市博物館所蔵

桐山丹波
『桐山丹波像』 福岡市博物館所蔵

朝鮮の役では黒田軍の軍監的な役割を果たし、長政の使者として名護屋城(肥前)の秀吉を訪れた際には兜を拝領したことも。母里友信(太兵衛)とは朝鮮の役での戦況が芳しくないという報告をしたことで、母里が腹を立て、二人は口をきかない仲となったといわれています。豊前では一千石を与えられ、筑前では六千石を拝領しました。長政の命により筑前六宿街道(長崎街道)の一つ山家宿を建設、初代代官を務め、「九州の箱根」と呼ばれる冷水峠を開通させました。そしてこの山家の地で亡くなっています。桐山丹波の墓所は代官所の裏山の城ケ尾というところにあります。山家は長崎街道と日田街道、薩摩街道が交差し、幕府の長崎奉行をはじめ九州各藩の大名が通るなど、主要な宿場として栄えました。

※山家宿跡では毎年11月17日、小学校と地域住民で大名行列や史跡ガイドなどを行う山家宿まつりが行われます。

山家宿跡
​『山家宿』

冷水峠の画像
​『冷水峠』

桐山丹波墓所
『桐山丹波墓所』

恵比寿石神像
​『山家宿上町の恵比寿石神像』

桐山丹波兜
『桐山丹波 拝領兜』
※裏に桐山丹波の名が彫られています。

原田(はるだ)宿

筑前六宿街道(長崎街道)の南端にあり筑後国・肥前国と接した国境の宿場で、「黒田二十四騎」の一人小河(おごう)信(のぶ)章(あき)(伝右(でん)衛門(えもん))の甥小河(おご)内蔵(うくらの)允(じょう)が初代代官となり、整備されました。原田宿周辺には江戸時代に建てられたいくつもの国境石があり、そのひとつ「従是北筑前国」と刻まれた国境石は黒田藩の書家二川相(ふたがわすけ)近(ちか)によって書かれたものです。

国境石
​『国境石』

原田駅家之真景
原田駅家之真景(「田嶋外伝濱千鳥(挿絵)」)

『黒田二十四騎』の一人豊臣秀吉に激賞された武将
小河 信章(おごう のぶあき)(伝右衛門(でんえもん))(1554年から1593年)とは

官兵衛の旧主である小寺征職に仕えていましたが、官兵衛が小寺家と袂を分かつことになって黒田家の家臣となります。1587年の豊前入国にともない、五千石を拝領。文禄の役では明の大軍が押し寄せる中、少ない兵力で敵の進行を食い止め、秀吉から直臣に取り立てて大名にしたいと激賞されます。しかし、帰国途中の対馬で客死しました。

小河信章
『小河信章像』福岡市博物館所蔵

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