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歌碑・句碑を歩く(3)
万葉の昔から、この筑紫は、政治と文化の要所として栄えた。
今もいたるところに「史蹟」があり、名残りをとどめている。
天平の歌壇を彩った大伴旅人、山上憶良らが、大宰府の役人として西下、この地を数多く歌いあげた。
また旅にロマンを求めた人々が、二日市温泉に遊び、ひと時の歓楽を詠んだところである。
和歌に俳句に心が息づいている。
新時代へ強いあこがれ・・・ 明治維新の五卿
三条 実美(さんじょう さねとみ)
ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ
なれこそしらめ ちよのいにしへ
【作者】
三条実美は、幕末の尊皇攘夷派の公家。明治新政府の太政大臣。慶応元年(1865年)に、大宰府落ちした後、王政復古をめざした激しい心情を、湯の原(二日市温泉)に遊ぶ鶴に託して詠んだ。
【建設地】
筑紫野市湯町大丸別荘裏玄関
四条 隆謌(しじょう たかうた)
青 山 白 水 映 紅 楓
楽 夫 天 命 復 何 疑
【作者】
四条隆謌は、尊皇攘夷派の公家の中でも唯一の武人。後に大阪、仙台などの鎮台司令官。美しい自然を綴った漢詩と、王政復古を“天命”として成し遂げようとする決意がしのばれる漢詩。
【建設地】
筑紫野市武蔵 天拝山歴史自然公園の池上池畔
壬生 基修(みぶ もとなが)
ゆうまくれ しろきはゆきか
それならて つきのすみかの
かきのうのはな
【作者】
壬生基修は、幕末の尊皇攘夷派五卿の一人。新政府の参与、後に元老院議官、貴族院議員。勤王志士たちとの出合いの中でも、晩春の夕暮れ、垣根に咲く白い卯の花を見て細かな詩情を寄せている。
【建設地】
筑紫野市武蔵
帆足商店道はさんで前
三条西 季知(さんじょうにし すえとも)
けふここに
湯あみをすれば むらきもの
こころのあかも のこらざりけり
【作者】
三条西季知は尊皇攘夷派公家の一人。新政府の参与。明治天皇の侍従となり、歌道の指導をした。幕府お目付役との緊迫した中でも暖かい温泉でのもてなしに、すっかり、元気になったと詠んだ。
【建設地】
筑紫野市湯町東峰マンション二日市II前
東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)
しもかれの
おはながそてに まねかれて
とひこしやとは わすれかねつも
【作者】
東久世通禧。慶応3年(1867)秋、松尾家に招かれ、もてなしに対して謝意の一首。
【建設地】
筑紫野市武蔵八ノ隈池奥
東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)
藤なみの
はなになれつつ みやひとの
むかしのいろに そてをそめけり
【作者】
東久世通禧も尊皇派公家で歌人。明治新政府で外交を進め、後に枢密院議長。慶応元年(1865年)に西下、武蔵寺に遊んだ際、咲きにおう『長者の藤』を題材に、祖先の華やかな時代をしのんだ。
【建設地】
筑紫野市武蔵武蔵寺前
三条西 季知(さんじょうにし すえとも)
ひとならぬ くさきにさへも
わするなよ
わすれしとのみ いはれけるかな
【作者】
三条西季知。武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を詠んだ。
【建設地】
筑紫野市武蔵
松尾 光淑(まつお みつよし)
此山に のぼりし君が
古へを 思へばかなし
見れば尊し
【作者】
松尾光淑は筑紫野市武蔵の人。明治維新を前に西下していた尊皇攘夷派の三条実美ら五卿を迎えて秘かに世話をした温泉奉行松尾光昌(別名山太夫)の孫。天拝山で無実を訴えたとされる菅原道真への尊崇の念が深く、自著「武蔵温泉誌」にこの一首がある。
【建設地】
筑紫野市武蔵、天拝山登山口
立花 秋水(たちばな しゅうすい)
鴬や 破るる夢も 惜しからん
温泉に通ふ
下駄と雲雀の 声高し
【作者】
立花秋水は、江戸末期黒田藩家老も勤めた。本名平左衛門増毘(ますひで)。京都俳僧蝶夢の流れをくむ俳人。千鳥庵とも号した。「安永四未のとし二月秋水書」とある『湯の里一興』は、近世の二日市を著した日記風の書。この中にある二句を刻んだ。自然味あふれる古い湯町を詠んでいる。
【建設地】
筑紫野市武蔵
アラスカ入口付近