68.西部軍司令部跡

  「大東亜戦争」という名称を理解できる人は、現在では戦前派の世代に限られてきました。1945年(昭和20)8月の敗戦によるアメリカ軍の占領政策で、学校の歴史教科書やマスコミの報道は「太平洋戦争」または「第二次世界大戦」へ変更されました。暗く、悲惨な思い出になりますが、この戦争のキズ跡は筑紫野市域でも深く刻み込まれています。
  戦跡の中で代表的なものは、山家の宮地嶽の南山麓、山家村・夜須村・御笠村・天山村(当時)に拡がる「西部軍司令部跡洞窟」です。戦争末期、日本軍は追いつめられて方針を本土防衛、九州決戦へと大きく転換しました。
  大本営陸軍部は昭和20年2月、本土防衛軍を創設し、西日本地域を「第十六方面軍」の担当として横山勇中将を軍司令官に任命しました。さらに最前線の戦争指揮所として宮地嶽山麓約120万uに“地下壕陣地”を構築しました。工事は突貫作業で、関門鉄道トンネル完成の実績を持つ株式会社熊谷組が請負い、筑豊炭田の坑夫や朝鮮人労働者が大量に投入されました。


▲山家の大又に立つ記念碑

▲西部軍司令部跡洞窟の遠景

▲洞窟入口



 

 

 敗戦の混乱と軍の機密処理で、当時の資料はほとんど残っていませんが、防衛庁戦史資料室に警察予備隊調査とみられる略図が保存されていました。この略図によると、地下壕は「北壕・南壕」に別れて構築されていたことがわかります。現在の旭化成(本社東京)筑紫野工場のある北壕は、奥行き約150mにわたって3本の幹線トンネルを平行に通し、これを井げたのように数本のトンネルで横に結び、基盤の目状に掘削した構造でした。南壕は現在の砕石場に隣接した山腹を奥行き約200mに幹線トンネルを通し、北壕と同じように横にトンネルを配していたようです。北・南壕は別のトンネルで繋がっていたと見られます。トンネルの最大断面は幅13m、高さ7m余の半円形で、堅い岩盤をくり抜いただけの急造の洞窟陣地でした。
  昭和20年6月、米軍機の福岡大空襲後、西部軍司令部は山家の地下壕へ移り、近くの農地に三角兵舎が並びました。司令部要員は軍属を含め

635人でした。高級将校は二日市湯町の温泉旅館を宿舎にしていたようです。熊谷組社史は「昭和19年10月、運輸通信省の山家軍部委託地下施設工事」の簡単な記載があるだけで、極秘事項だったと推測されます。地元資料では「筑紫倉庫」となっています。
 このほか、旧筑紫小学校(筑紫村)に高射砲陣地が設営され、終戦直前米軍機の「西鉄筑紫駅銃撃」事件で数百人の死傷者を出す悲劇も起こりました。二日市小学校などにも軍隊が駐屯していました。
  紫地区の松下金属九州工場(現三洋電気)は兵器工場となり、勤労動員の学生も投入して数百人が三交替制の激務を続けました。旧海軍で幻の戦闘機となった「震電」の製造が筑紫神社北側の九州飛行機製作所で続けられましたが、試験飛行機中に敗戦となりました。当時の国民歌謡「月月火水木金金」のように、休日返上の国家総動員体制という暗い時代でした。