62.武蔵温泉の開発



▲温泉浚渫碑(武蔵寺の山門をくぐって右)

留湯は、一般の人の入湯を禁じた温泉で、黒田藩主専用の温泉「御前湯」のこと、助湯(介湯)はその補助的な施設と考えられます。川湯は、文字通り鷺田川畔に湧き出した公衆浴場で、湯治客などが入った温泉です。薬師湯は、その側に祀った薬師如来にちなんだ古来の温泉と考えられます。ここで近くの武蔵寺に伝わる同寺縁起絵図(筑紫野市指定文化財)に登場する開祖藤原虎麿との関わりが出てきます。
  この温泉地に開発の波が訪れたのは1889年(明治22)、九州に近代的な交通革命をもたらした九州鉄道(現在のJR)の開通でした。日本で始めて鉄道が東京・新橋と横浜間に開通して17年後のことです。これに目をつけたのが博多の豪商渡邊與三郎(引退して與八郎)でした。與八郎は地元富豪の谷彦一(鉄道誘致の功労者)と組んで、江戸期の旅籠とは違う温泉街づくりに乗り出しました。

  健康ブームの先駆けとして、武蔵温泉(現二日市温泉)はよく知られた湯治場でした。この温泉は、元禄(1688〜1703)のころ4ヵ所で湧き出していたことが『筑前国続風土記』(黒田藩儒学者・貝原益軒らの著作)に記録されています。それから百年後、寛政年間の『筑前国続風土記附録』の絵図には「湯町」が鷺田川を挟んだ町並みとして描かれています。そこに初めて「薬師湯」と「留湯」の名を見ることができます。さらに『御笠郡明細記』(1802年)の武蔵村の頃には湯坪6ヵ所とあり薬師場、御前湯、助湯、川湯(3ヵ所)が湯坪の内訳としてあげられています。
▲武蔵寺の山門



 


 

温泉旅館延寿館のほか大阪屋、港屋、大丸館などがオープン。與三郎は現在の温泉センターのような「薬師湯」を開設、高級貸し部屋のほか射的場、玉突き場も備えていました。この大きな開発から、旅館街が「内湯あり」を看板に泉源掘削を競ったため、泉源の低温化を招き、泊り客の争奪などの大きな軋轢が生まれました。このため地元では「十九名社」という“結社”をつくり、渡邊與三郎と「約定書」をかわして互助組織を固めました。こうした湯町繁栄の表裏を伝えるのが次の碑文です。
  「当温泉ハ千三百年来ノ歴史ヲ有スル霊泉タリ然ルニ明治二八九年(28,29年)交温泉冷却シテ殆ド廃減帰セントシカバ当時大浚渫ヲ企テ左記三氏ヲシテ掘削ノ労ニ当ラシム・

・・(中略)終ニ竣工ニ至ラシメ始メテ以前ニ優ル良好ノ温泉タルコトヲ得タリ」。
  三氏とは中村弥平、安西重平、右田正太郎で、碑は1915年(大正4)、與三郎によって建立されています。
 與三郎が湯町開発に熱意を固めたのは「商都・博多の将来を考える時、京都、大阪はもとより東京、名古屋などの各県下との取引の上でも、この温泉は好適な商談の場となるだろうと考えた」(『渡邊興八郎伝』)からです。1908年(明治41)には武蔵寺住職の提唱と二日市町長や郡長の幹旋によって、地元区が所有した御前湯、薬師湯、川湯の三温泉を與三郎に貸し付けた記録もあります。日露戦争後の経済振興のなか、温泉経営に新しい資本によるテコ入れを期待したものでしょうか。


▲薬師湯(明治35年ごろ)

▲乱堀を伝える新聞記事(福岡日日、昭和2年3月2日)