61.野口雨情の「筑紫小歌」


▲雨情の歌碑(JR二日市駅前)

   童謡で有名な詩人、野口雨情(1882〜1945)の歌碑が、JR二日市駅前に建立されたのは昭和63年末のことです。なぜ雨情の碑が?
 大正末から昭和初期の流行作詩家となった雨情は、全国各地から招かれて“作詞行脚”をしました。九州に足を伸ばしたのは昭和2年ごろで、当時筑紫郡二日市町にあった筑紫路観光協会発行のパンフレット「太宰府と武蔵温泉(現二日市温泉)」に「筑紫小歌」が掲載されています。踊りの振付けはありましたが、曲は不明です。
 「山ぢゃ天拝月見の名所 梅ぢゃ太宰府天満宮」に始まる十節があります。
雨情詩集」では「けふは湯町の温泉どまり・・・」が冒頭にあり、最後は「明けてうれしい天満宮の
 春の鷽かへ縁となる」が結びです。雨情は“学問の神様”菅公を崇拝していたようで、昭和3年に「天神さまのお通り」などを発表しています。この野口雨情歌碑を記念して、平成元年からJR二日市駅前広場で「童謡唱歌みんなで歌おう」の会が、春と秋に開かれていました。雨情の童謡「七つの子」「あの町この町」など童心を呼び戻す歌と小学校唱歌の数々を歌い継いでいました。会は10年間ぐらい続いたようです。



 

 

 テレビ、マンガ世代の子どもたちは、童謡などはほとんど歌わなくなりましたが、こうした機会に歌い継がれる曲は、単に過去を懐かしむだけではなく、いつまでも愛唱される歌の生命というものを感じさせられるようです。
 雨情は、大衆に愛され歌い継がれた「 船頭小唄(枯れすすき)」や「波浮の港」など歌謡曲、民謡でも一世を風靡しました。この2曲は中山晋平の作曲です。二人は童謡「証誠寺の狸囃子 」「あの町この町」「雨降りお月」などを世に送った名コンビです。
 雨情の歌は故郷、北茨城の風土と、その天性から自然にあふれ出たものといわれています。雨情自身も「童謡は童心から流れて童心に訴える自然詩」「民謡は土の自然詩」と語っています。
  福岡・筑後出身の北原白秋も同じころ活躍した詩人です。白秋は詩「帰去来」で「山門は我が産土 雲騰がる南風の
まほろ飛ばまし・・・」と詠み、同じように郷土を母胎にしていました。白秋は短歌から出発していますが、童謡にも名作があります。文部省検定の「揺藍のうた」は、教科書にも登場しています。   白秋、雨情はともに童話・童謡雑誌「赤い鳥」を舞台に活躍しています。雨情の「七つの子」には次のようなエピソードが残されています。元の詩は題名が「山烏」。「烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの 子があれば」と、長男を連れて裏山に遊んだときの思いを、子守歌のような一節にしました。後に推敲を重ねて、あの名曲が生まれたといわれています。雨情は他の詩人に比べてやや遅く37歳で童謡を手掛けましたが、終戦前の1945年(昭和20)1月27日、疎開先の栃木県で病死しました。

▲JR二日市駅前広場で催される
「童謡唱歌みんなで歌おう」の会

▲野口雨情の生家(茨城県北茨城市)