てんぱんざんじょう
   47.天判山城
−荒城をたずねて(1)



天判山城の想像図イラスト:小曽根敏雄/考証:木原武雄



御笠郡武蔵村天判山故城之図
     天保14年(1843)10月28日に秋月藩
     御絵図方の大倉種周が測量した図
     原本は国立公文書館内閣文庫に保管。    





  標高258m。峨峨として、かつ、端麗な山容をもつ天拝山(てんぱいざん)は、菅公ゆかりの地として名高く、古来より信仰の対象となり、その名も天拝・天判、あるいは武蔵山(むさしやま)と呼ばれてきました。山上からの眺めは絶佳で、筑紫平野を一望に収め、足下に“遠朝廷(とおのみかど)”大宰府都城あり、筑前と筑後・肥前・肥後・豊前・豊後とを結ぶ交通の要所でした。また、東北は三笠川と山口川、西南は重畳たる背振山系の山々によって守られ、まさに難攻不落。守るに易く、攻むるに難い天恵の要害です。
 中腹の飯盛城、東麓の堂山城は、南北朝のころ大宰少弐頼尚(
だざいしょうによりひさ)の築城と伝えます。天判山城もこのころかと思われますが、記録上は詳かではありません。しかし、戦国時代半ばの永禄2年(1559)ごろ、筑紫氏の居城だったことは確かのようです。『九州治乱記(きゅうしゅうちらんき)』に、「永禄二年、筑前国五箇山(ごかやま)の領主筑紫右馬頭惟門(ちくしうまのかみこれかど)、此二、三年、大友に攻められ山中に引き篭りしが、今年の春、居城武蔵(天判)へ立帰り、大友に対し、又々逆意をなしけり云々」とあります。
  筑紫氏の祖先は、名門大宰少弐家で、初代経重(
つねしげ)が地頭(じとう)として筑紫村に住し、筑紫氏を名乗り、筑紫神社の宮司を兼ねていました。(『太宰管内志』)
  このころの居城は筑紫「原田」城で、現在の筑紫小学校のある丘にありましたが、惟門の祖父満門(
みつかど)の時、この天判山に築城移転したともいいます。


▲大友方の武将をまつったといわれる十三塚(下見)

▲下見の侍島のあたり。手前は宝満川

侍島(さむらいじま)合戦
 
さて、大友義鎮(おおともよししげ)は、反逆者惟門を征伐しようと、永禄2年4月2日、真光寺佐藤刑部丞(しんこうじさとうぎょうぶのじょう)ほか、筑前・筑後・肥前の軍兵1万余をもって天判山城を包囲させました。ところが、惟門は知識をもって篭城をきめこみ、合戦に応じませんでした。業をにやした大友勢が寄せ手を一時、退かせますと、惟門はこの時とばかり、城を出て、侍島に戦場を移し、河畔や森陰に鉄砲隊の伏兵を潜ませたのです。
  それとは知らず、大友勢が深追いしますと、突如として周囲から、一斉に鉄砲を乱射したので、総大将佐藤刑部丞は立ちどころに討たれ、肥前の犬塚尚家(
いぬづかひさいえ)、筑後の星野鑑泰(ほしのあきやす)、問註所鑑晴(もんちゅうしょあきはる)らの武将も悉く討ち死にして総崩れとなり、筑紫方の大勝利に終わりました。これを「侍島合戦」といいます。
  降って天正(
てんしょう)ごろになると、筑紫広門(ちくしひろかど)の家臣帆足備後守善右衛門尉(ほあしびんごのかみぜんえもんのじょう)が天判山城・薬師山(堂山)城の城番を勤めていましたが、天正14年(1586)島津勢北上の途に攻められ、島津方岩屋城攻めの指令部ともなり、その後、元和(げんな)元年(1615)の武家諸法度(ぶけしょはっと)によって廃城となりました。
  城跡には、今も空堀(
からぼり)・竪堀(たてぼり)・土塁(どるい)・曲輪(くるわ)などの城郭遺構をよく留めており、郷土の戦国史を偲ばせてくれる貴重な文化遺産です。
                  (木原武雄)