ごきょう
  30.五卿
の歌碑


▲魚源旅館の前にある三条西季知の歌碑      

▲大丸別荘の裏門前にある三条実美の歌碑
 

  明治維新は、尊皇攘夷派公家(そんのうじょういはくげ)の太宰府入りが大きなきっかけとなりました。三条実美(さんじょうさねとみ)・三条西季知(さんじょうにしすえとも)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・壬生基修(みぶもとなが)・四条隆謌(しじょうたかうた)の5人(五卿)です。彼らは、藩閥(はんばつ)政治を廃して王政復古をめざした勤皇(きんのう)派の士族たちと組み、永年の圧制に反発する農民などの世直し運動とも結び、さらに西欧列強諸国の開国要請という社会情勢を背景に19世紀末の政治改革を実現させました。
  慶応元年(1865)2月、長州(ち
ょうしゅう)藩から筑前黒田藩が支配する太宰府天満宮延寿王院(えんじゅおういん)に移された五卿は、ここで薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本龍馬、筑前の月形洗蔵、平野国臣など勤皇志士たちと新しい政治をめざし秘策を練りました。これに対し、幕府側は目付役の小林甚六郎らを派遣して五卿の京都帰還を図ったため、勤皇派との間で緊迫した関係が続きました。月形洗蔵は、市内古賀に幽閉された後、乙丑(いっちゅう)の獄で刑死するなど動乱の時代だったのです。時に、洗蔵38歳でした。

 「ゆのはらに あそぶあしたづ 
  こととはむ なれこそしらめ 
  ちよのいにしへ」
  二日市温泉の大丸別荘旧玄関に建つ歌碑に刻まれているのが、三条実美の一首です。
“湯の原を群れ遊ぶ鶴に聞いてみたい。おまえたちなら知っているだろう、はるか古代の御世をと”かつての律令制と王政復古(
おうせいふっこ)を重ねて、これから来るであろう新しい時代への激しい思いがあらわれています。実美は維新のリーダーとして新政府の太政大臣も務めました。
  武蔵寺の山門横にある東久世通禧の一首。
 「藤なみの はなになれつつ 
  みやびとの むかしのいろに
  そでをそめけり」
  通禧は新政府で外交を担当し、元老院議官も務めました。竹亭の雅号で歌人としても知られています。
  当時、武蔵で五卿の世話をした温泉奉行の松尾家の近くに三条西季知の歌碑があります。






 

▲武蔵寺の山門前にある東久世通禧の歌碑。右は、同寺下にある壬生基修の歌碑。

▲古賀にある月形洗蔵幽閉の碑

 

 「けふここに ゆあみをすれば 
  むらぎもの こころのあかも 
  のこらざりけり」
  季知は新政府の参与となり、また、明治天皇の侍従として和歌の指導にあたりました。  壬生基修の歌碑は、武蔵寺近くに建っています。
 「ゆうまぐれ しろきはゆきか 
  それならで つきのすみかの 
  かきのうのはな」
  「薄暮卯花」と題した叙情的な和歌です。基修は新政府の参与の後、元老院議官、貴族院議員も務めました。
  こうした和歌と異なる漢詩碑が、天拝山歴史自然公園の池上池のほとりにあります。
「青山白水映紅楓」「楽夫天命復何疑」
  四条隆謌の作。隆謌は五卿のうち唯一の軍人で戊辰戦争に錦旗奉行として参加し、のち大阪、仙台など鎮台指令官を歴任しています。
  こうした公家たちは、慶応3年末の大政奉還が実現するまでの3年余に、太宰府周辺の勤皇派の庄屋、造酒屋などを訪れ、得意の和歌を詠みました。 実美は山家宿の山田勘右衛門宅に「洗心亭」の額を贈り、そこで一首を残しています。  また、阿志岐の平山仙十郎宅でも一首。

 「くれたけの しげみのやどは
  なかなかに よのうきふしも
  なきところなり」。
  大石の医師岡部忠徳宅で治療をうけたなかで、
 「いかにして つくしのうみに
  よるなみの ちへのひとへも
  きみにこたへむ」。
 
いずれも「七卿在西日誌」や「回天実記」などに記録されており、五卿の麗筆は今日まで大切に伝えられています。
  松尾光淑氏が著した『武蔵温泉誌』(明治31年刊)には「実に王政維新の原動力は此地に在りしなり」と記されています。
         (村里 徳夫)


天拝山歴史自然公園の池上池のほとりに建つ
四条隆謌の漢詩碑。