27.二日市(3)八幡宮と六地蔵


▲老女が身体を張って守ったと伝えられる「神木大いちょう」と
その「銘板」右上


▲二日市八幡宮の社殿
神  木

  二日市は鎌倉時代ごろから「二日の市」が立って繁栄していきました。黒田藩が日田街道の宿場として二日市に本陣を置き、二日市温泉に藩主の「御前湯(ごぜんゆ)」を開いたこともあって発展をうながしたようです。
  二日市の産土神(うぶすながみ)である二日市八幡宮は、『筑前国続風土記附録』には「祭る所三座。応神天皇、神功皇后、玉依姫命なり」とあります。
  主な祭事は、7月31日の「夏越大茅輪(なごしおおちのわ)くぐり」です。紙の人形で身体をなでて息を吹き掛け、それを持って茅輪をくぐって無病(むびょう)息災(そくさい)のお祓(はら)いを受けます。また10月15日の秋季大祭には、かって御輿(みこし)がくり出す神幸式が催されていましたが、今は子供御輿だけです。




 境内の大いちょうは「神木」とされ、天正(てんしょう)年間の有名な岩屋城の戦いにちなんだ逸話(いつわ)が残っています。
  大友勢の高橋紹運(たかはしじょううん)を攻撃した島津勢が二日市に攻め入り、同宮の大いちょうを伐り倒そうとしました。これを知った百姓惣左衛門(そうざえもん)の老婆が駆付け「これは、村の氏神様の神木じゃ。伐れば神罰を受ける。どうしても伐るなら私を斬ってからにせよ」と、樹幹に抱きつきました。
  島津勢は老婆のあまりにもすざまじい態度に驚いて、斧をすてて立ち去ったといわれています。当時からすでに四百余年、大いちょうは、樹齢を重ねて老化、平成3年の台風で被害をうけました。昭和59年に筑紫野市天然記念物に指定されています。





▲六地蔵菩薩として信仰を集める六体の地蔵尊と、
江戸時代の石像を祭る
(現在の小詞は、昭和55年秋に二日市財産区が再興しました)   



六地蔵

  六地蔵は、二日市東小学校の北側、旧日田街道沿いの丘陵(市内大字二日市)に祭られています。ここにも天正年間の大友氏と島津氏の戦いにまつわる伝説があります。
  昔、この地に地蔵堂がありましたが、両氏の激しい戦闘のため荒廃し、島津勢は数百人の戦死者を供養せずに埋葬して引き上げました。
 その後、この地に放牧されていた牛馬が相次ぎ死んだため、村人たちは恐れてこの土地に近寄らず行路病者の無縁墓地となり、「魔の原」と呼ばれる荒れ地となっていました。
  そこで元禄(げんろく)10(1697)年になって地元の有志によって新たに六地蔵が祭られ、毎年7月23、24日に祭典が続いています。
  六地蔵とは、天上(てんじょう)、人間、修羅(しゅら)、畜生(ちくしょう)、餓鬼(がき)、地蔵(じぞう)の六世界にいて、民衆の苦しみを救う地蔵で、石像六体が仲良くならんでいます。

高橋紹運首塚

  首塚は二日市京町の小高い住宅地にあり、土盛りを石垣で固められています。天正14(1586)年、島津勢が、岩屋城を包囲、十数日の攻撃の末、城主の高橋紹運(じょううん)ら七百余人が全員討ち死にしました。
  そこは島津側の陣地の跡といわれ、ここまで敵将紹運の首を運んできて、首実験をした後、この地に葬ったと伝えられています。胴体は、四王子山腹の岩屋城下に同じような塚がつくられ、祀(まつ)られています。首塚は、筑紫野市指定の史跡です。

 「流れての 末の世遠く 埋もれぬ
    名をや岩屋の 苔(こけ)の水」
  戦国時代の一武将の忠誠心は、この辞世(じせい)にこもっており、時代を越えて訴えるものがあります。

            ▲武将高橋紹運の首塚(京町)