かんこう
   22.菅公
伝説(1)

 

天拝山頂で祈願する菅公「北野天神縁起絵巻」の部分
艶寥がみそぎをしたとされる紫藤の滝

▲山頂の天拝社
 
天拝山と道真

 “学問の神様”菅原道真(すがわらのみちざね)公が讒言(ざんげん)のため太宰府に左遷されたのは延喜元(901)年で、その3年後、悲運の中に病死しました。しかし、その遺業は天神信仰として全国に広がり、数多くの伝説も生まれています。
  なかでも有名になったのが名所天拝山(てんぱいざん)です。自分の無実を天に訴えるため、百余日間、武蔵寺境内の「紫藤(しとう)の瀧(たき)」にうたれて身を清め山頂に登って七日七夜、岩の上に爪立って祈り続けました。すると天から「天満在自在天神」と書かれた尊号がとどいて、願いが成就されたということです。その話は歌舞伎の「菅原伝授手習鏡(すがわらでんじゅてならいかがみ)」にも登場します。 
  古い呼びかたの「天判(てんぱん)山」は、その後天拝山と呼ぶようになったと伝えられています。
  標高258メートルの山頂には祠(ほこら)があり、近くに菅公の「おつま立ちの岩」(又は天拝岩)があります。石の上に菅公の足型があるといわれますが、見たところわかりません。
  太宰府天満宮の秋の神幸式(じんこうしき)の御輿(みこし)が配所の榎社に下る夜(9月22日)、祠前でかがり火が焚かれます。山麓の大門地区の人々が菅公をしたって、代々心尽(つく)しの「迎え火」の行事を受け継いでいるのです。
  山頂に一本の老松がそびえ「天拝の松」と呼ばれていました。遠く博多湾に出入りする船からも見えたそうですが、昭和5年の大風で倒れ、今は古い写真しか残っていません。

 
 

▲菅公が武蔵寺参詣の折、自ら像を刻んだ木像を祭る
御自作天満宮

▲みそぎのための衣掛石
御自作天満宮

  天拝山頂の祠の下宮にあたるのが「御自作天神」「新天神」ともいわれる御自作天満宮(ごじさくてんまんぐう)(市内大字武蔵(むさし))です。菅公が武蔵寺(ぶぞうじ)に参詣された時、自ら像を刻んだことが同寺縁起にも見え、今では、それが神体となっています。
  天正14(1586)年の岩屋城攻防戦の際、武蔵寺裏山の堂の山城が焼き討ちにあったため同寺とこの天満宮も焼けました。しかし、神体の首だけは運び出されていたので、元禄(げんろく)年間、黒田藩の武蔵領主立花増弘(たちばなますひろ)が修理、新しい社殿を建ててこれを祭りました。

  瀧つぼの横に古い石塔があり、台石には次の漢詩が彫られています。

 「天判峯頭仰彼蒼 願心成満放威光御衣薫石変成塔 五百年来流水香」
  正平二十年二月二十五日
  願主 大僧都信聡  謹題

  正平20年は西暦1365年で南北朝時代にあたり、信聡(しんそう)は、太宰府天満宮ゆかりの僧侶です。この古塔は筑紫野市文化財に指定されています。
 
  【参照】『筑前続風土記』
 
  現在、1月、4月、10月の各25日に熱心な信者たちの手で珍しい「御開扉(ごかいひ)」の催しがあり神体を拝むことができます。

紫藤の瀧と衣掛石

  菅公が天拝山に登って無実を訴えるため、身を清めたとされるのが紫藤の瀧です。みそぎをする時に脱いだ衣を掛けたのが衣掛石(ころもかけのいし)で、しめ縄が張られた高さ2メートル余りの岩が瀧のそばにあります。


▲正平20年銘のある古石塔
台石に刻んだ漢詩は侵食がはげしく読みにくい