18.二日市(1)−地名の由来


▲写真は行商の風景。交易の古い
姿を示すものである。
(1987年12月撮影)
   

▲『二日市宿庄屋覚書』より
二日市の儀、古来より市立ち居り申す由、いかようの事にて市立ちやみ候や、それにより寛永十六己卯年秋冬より市の御訴訟申し上げ候ところに相叶い、同十七年庚辰の正月より市立ち申し、極月の市までおびただしく市立ち賑わい申す由に候。然るところに辰の秋、大損毛にて翌年正月に市祭りも仕らず、そのままにて市立ちやみ申し候。正徳四午年まで七十五年になる。
 全国各地には三日市や四日市、五日市という地名があります。むかし、そこで定期市が開かれていた名残りです。当地の二日市もそのひとつで、毎月2のつく日に大勢の売り手と買い手が集まって取り引きをしたことから、その名があります。定期市の多くは、鎌倉時代に始まったようです。それまでの物々交換に加えて、地方の荘園(しょうえん)や国衙(こくが)領内の交通の要地に定期的に市が開かれるようになりました。
  二日市の地名が記録の上で最も古く現れるのは、少弐政資(しょうにまさすけ)が筑紫満門(ちくしみつかど)に宛てた文明11年(1479)の安堵状(
あんどじょう)(土地の所有権を認めた文書)です。それ以前の記録の多くはすでに失われていますので、詳しいことはわかりませんが、古代からここが政治・経済の要地であったことを考えると、おそらく二日市の前身はもっと古くさかのぼることができるでしょう。それは、菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府謫居(たっきょ)中に詠んだ『菅家後集(かんけこうしゅう)』(903年)の次の一節から推測できます。
 「郭西路北賈人声、無柳無花不聴鶯……」
これは、榎寺(えのきでら)が郭(かく)西(右郭)にあって市に近かったので、物売りたちの声がやかましいばかりで、立春後50日もたつのに花も柳も無く、鳥の声を聞くこともない、と日の当たらぬ自らの人生を対比させて詠んだ詩です。これによって平安時代にはすでに榎寺からそう遠くないところに市があったことがうかがえます。さらに、長元(ちょうげん)8年(1035)に観世音寺が大宰府に宛てた文書のなかに「市町垣内(いちまちかいと)」の名が見えます。この時代では、まだ二日市とは記されていませんが、この市町が二日市の前身ということがわかります。
 では、この市町とはいったい何だったのでしょうか?先に定期市の多くは鎌倉時代に始まったと述べましたが、当地ではそれ以前から市が立っていたことになります。関係する古文書からみると、この市町は川のほとりにあったようです。のちの二日市は鷺田川のほとりにあり、しかも榎寺の付近に位置していますので、三者の関係は緊密であると思われます。そこで裏面の大宰府条坊(
じょうぼう)復原図を見て下さい。


 


 7世紀後半に大宰府が設置され、平城京(奈良)にならった都市計画がなされていたであろうことは周知のとおりですが、二日市の位置は朱雀大路(すざくおおじ)推定線の東、左郭の南部にあります。平城京と平安京(京都)には、左・右京南部の川のほとりに東西の市がありましたが、大宰府と二日市(市町)の位置関係はそれによく似ています。

確かなことは今後の調査研究にまたなければなりませんが、二日市の起源はどうやら大宰府政庁の市町にあったようです。

 〈参考文献〉
 1.長沼賢海『耶馬台と大宰府』1968.9.
 2.鏡山 猛『大宰府都城の研究』1968.6.
 3.近藤典二『筑紫野の地方史』1984.7.


▲『大宰府都城の研究』より