やま  え  しゅく    お  ちゃ  や
95. 山家宿の御茶屋


▲山家宿の御茶屋想像図
(三奈木黒田家文書 山家駅御茶屋図(享和元年)をもとに作成)
@表御門 A腰掛 B御駕籠部屋 C番所 D裏御門 E御道具藏 F御厩 G玄関 H御広間 I御居間 J台所 K寝所 L湯殿

御茶屋の機能
  御茶屋は、筑前六宿をはじめ、領内の主要な場所に設けられました。そして、大きく分けて3つの機能がありました。

@藩主の別邸
A参勤交代での大名の宿泊所
B対面の場

 特に3つ目の対面の場として利用する場合は、「御出会」と呼ばれる行事が主に行われ、佐賀藩主や、長崎奉行が初めて領内を通行する際、福岡藩主は山家宿の御茶屋に出向いてあいさつすることになっていました。「御出会」は藩政期を通じて行われましたが、筑前六宿の御茶屋のなかでも、小倉・長崎・日田・薩摩・福岡からくる道が1本になる地点にあった山家宿の御茶屋で、そのほとんどが行われました。

御茶屋とは
 御茶屋といえば、むかしの旅人が団子をたべたりお茶を飲んだりする、時代劇によく出てくるような茶店を連想する人が多いと思います。しかし、ここでいう御茶屋はそれとは別です。江戸時代、領内の主な街道筋に設けられ、藩主が参勤交代や領内の見回り、狩りなどの時に宿泊したり休憩したりする施設のことを御茶屋といいました。筑紫野市の山家宿にも御茶屋があり、『黒田家譜』には「山家の別館」と記されています。
 山家宿の御茶屋ができた年代は正確には分かりません。しかし『黒田家譜』には、明暦2年(1656)に福岡藩主黒田光之が、甘木にある三奈木黒田家の館を訪問した際、途中で山家宿の御茶屋を利用したことが記されています。よって、この時にはすでに御茶屋が存在していたものと考えられます


▲須藤家文書 御出会達御間取絵図(文久二年)




 

▲現在の表御門付近
 

▲『筑前名所図会』にある山家の御茶屋
 御茶屋のようす
 御茶屋は、当時の特権階級の人が利用する所でしたから、普通の民家や旅籠と比べると、格段に大きく、建物も立派でした。では、山家宿の御茶屋はどんな建物だったのでしょうか。山家宿の御茶屋には、享和元年(1801)と文久2年(1862)に描かれた間取り図が残されているので、それをもとに御茶屋のようすを見てみます。
 山家宿の西構口を入ると左手に瓦葺きの表御門があり、それをくぐると茅葺き書院造りの御茶屋が建っていました。主屋の総床面積は、約160坪とかなり広く、長崎街道筑前六宿の御茶屋の中では一番大きなものでした。
 御茶屋は、南を向いて建てられており、客を迎えるための式台を上がると、玄関(16畳)右側に御広間(24畳)、北東側に向かって三ノ間(15畳)・二ノ間(10畳)・御居間(12畳半)が続き、御居間から中庭を挟んだ北側には、寝室と湯殿があって、藩主のプライベートルームとなっていました。建物の西北側は、主に広い台所で占められており、藩主や大名の料理などはここで作られました。
 御茶屋の敷地には、腰掛、厩、御道具藏、井戸、池があり、番所が三カ所にあって御茶屋を警護していました。御茶屋は街道よりも高台に建っており、御茶屋のまわりには下代の屋敷が建ち並び、御茶屋の裏門は、代官所や下代屋敷に通じていました。 


御茶屋のその後
 藩の直営である御茶屋は、明治時代になると使用されなくなり、解体されて、その跡地は畑となりました。現在、御茶屋跡は道路の拡張や、住宅地となっているため、当時の面影を偲ぶことはできません。しかし、絵図などの記録から、江戸時代には表面(
おもてめん)の想像図のような立派な建物が建っていたことがわかります。
          (有田和樹)

〈参考文献〉
 ・福岡県教育委員会編『長崎街道』
  歴史の道調査報告書第一集 2003年
 ・『筑紫野市史』 下巻 1999年
 ・筑紫野市教育委員会編『山家地区
  整備調査報告I』筑紫野市文化財
  調査報告書 第65集 2001年

▲御茶屋跡から見た下代屋敷
右側に見えるのが江戸時代の道です。
(撮影 昭和50年頃)