91.日 田 街 道

 今から約400年前の筑紫野市は、戦国時代の戦火(島津・大友)の復旧も進み、江戸を中心として徳川幕府による統治が始まろうとしていました。その一つとして、古代から交通の要衝として栄えた本市には、道路(街道)や宿場(街並)が整備されていきました。
 その結果、江戸と長崎を結ぶ長崎街道(ながさきかいどう)(本宿通)(
ほんじゅくどおり)には山家宿と原田宿ができ、福岡と日田を結ぶ日田街道(内宿通)(うちじゅくどおり)には二日市宿ができました。長崎街道は鎖国日本唯一の貿易都市、長崎から世界の文物や人々が往来し、街道周辺地の発展や近代化に多大な影響を与えたことでしょう。
 一方、日田には、九州における天領
(てんりょう)(幕府の直轄地)を支配するための西国郡代(さいごくぐんだい)が置かれたことから、政治・経済の中心地ともなりました。そのため、日田街道は、九州各地の諸大名をはじめ、文人や商人などの往来でにぎわいました。それに加え、諸大名の参勤交代が山家宿(筑紫野市)で合流したため、当地での交通量は九州では上位に入るといわれました。
 また、そのきっかけとなったのは、文政8年(1825)3月、薩摩藩主島津斉興
(しまづなりおき)の参勤交代(お下り)からです。筑前六宿(本宿通)を避け、木屋瀬宿から青柳宿や博多宿、二日市宿を経由するいわゆる内宿通りを利用する
ようになってから、西国の熊本藩主(細川氏)や久留米藩主(有馬氏)も加わり、二日市宿で宿泊や休憩をとるようになり、往来の数が逆転しました。最初
の薩摩藩の通過の時は、二日市宿で昼の休憩をとり、針摺峠で小休止(御駕籠建場)(おかごたてば)、小鳥持(永岡)で野雪隠(のせっちん)(野外便所)をする予定である事を先触れが指示しています。
 現在、市内で日田街道を復元すると、二日市中央通り(二日市宿)・紫・六地蔵(二日市東小学校付近)・石崎・針摺(針摺追分)・峠・小鳥持・宝満川・柴田城・天山・二(ふた)(夜須町)・大又(おおまた)(関番所跡)・間片(まかた)・石櫃追分(いしびつおいわけ)(夜須町)と以下の地図のようになり、90(実線)パーセント近くが残っていて、今なお市民の生活道路として利用されています。

          (山野洋一)
                                

参考文献

 「
筑紫野市史」 下巻 第四章 街道と宿駅 近藤典二著
 
薩摩中将様内宿御下向一件(高原(謙)文書)


    
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