くに し てい とく べつ しせき  きい じょうあと
85. 国指定特別史跡 基肄城跡




@基肄城の範囲
基肄城は、なぜ国の特別史跡になっているのですか?
 基肄城は、大野城・水城と併せて大宰府防衛のために築造された軍事施設で、日本最古の朝鮮式山城です。歴史的・学術的に極めて貴重な史跡ですから国指定の特別史跡とされています。



●基肄城とは、どんなものですか?

 基肄城は、大宰府政庁の真南、朱雀大路(すざくおおじ)の延長線上に位置する筑紫野市と佐賀県基山町との県境にあります。標高404.5mの基山(坊住山(ぼうじゅざん))と、414mの北帝(きたみかど)、さらに東峰にまたがり、南に向かって開く谷を取り囲むように尾根づたいに総延長約4qにおよぶ土塁や石塁を築いています。城門が北の筑紫野市側に2ヶ所、南の基山町側に2ヶ所確認されています。また、基山町側の南門跡には高さ8.5mも積み上げた石塁と長さ9.5mの頑丈な水門跡があります。基肄城は、大野城とくらべて発掘調査があまり進んでいないために注目されてないようですが、これまでに武器や食料などを貯える40棟余りの倉庫と思われる建物跡の礎石が多数確認されています。

A基肄城を囲む土塁跡


B基肄城の略地図 


 





C水門(石塁)跡


D東北門跡

府市)、長門城(山口県)ととも朝鮮半島の百済からの亡命者である達率憶礼福留(だちそつおくらいふくる)や達率四比福夫(だちそつしひふくふ)などの指導によって築造されたものです。達率という称号は、当時の百済では、トップクラスの貴族に与えられたものです。築造技術に優れた武官であったと考えられています。百済の都であった扶餘(ぶよ)や公州(くんじゅ)周辺には、基肄城・大野城、水城のモデルになった扶蘇山城(ぶそさんじょう)や扶餘羅城(ぶよらじょう)などが今も見られます。

●基肄城では、実際にどんなことが行われていたのですか?
 基肄城を守る軍隊は、基肄軍団と呼ばれ、約500人以上の防人がいたと推定されています。本拠地は、現在の基山駅の北東にあったと考えられています。戦いになると、軍隊だけでなく、住民全員が城の中に入って守るのが朝鮮式山城の戦い方です。そのため、米などの食糧をたくさん倉庫に貯えていたようで、礎石の周辺から炭化米が発見されたこともあります。武器庫も当然あったと考えられます。防人の休暇は、10日に1日でした。
 しかし、大陸から攻め込まれることは一度もなく戦いに使われないまま、およそ200年後の平安時代初めには、防人も軍団も廃止されました。「御笠団印」と「遠賀団印」はともに太宰府市の国府跡と推定されている近くから出土していますが「基肄団印」はまだ発見されていません。
 今は、筑紫野市の山口方面からの北帝門や原田方面から東北門を通って基山山頂までの健康ウォークや、草スキーを楽しむ家族連れでにぎわいを見せています

                     
(木村敏美)
〈注〉写真および図の出典は、次の通りです。
@基山町教育委員会「特別史跡
基肄城跡ガイド」一部加筆
A基山町観光協会「
基肄城を歩く
B基山町教育委員会「特別史跡
基肄城跡ガイド」一部加筆
C・D基山町教育委員会「基山町の文化財ガイド」
●基肄城は、なんのために造られたのですか?
 基肄城は、当時の朝鮮半島と日本との緊張関係の中で緊急に造られたものです。朝鮮半島では、660年に百済(くだら)が唐(中国)と新羅(しらぎ)の連合軍によって滅亡しました。日本と友好関係にあった百済からは、たくさんの亡命者が日本にやってきました。日本は、女帝であった斉明(さいめい)天皇が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)とともに百済再興のために救援軍を送りましたが、663年の白村江(はくそんこう)の戦いで敗北し朝鮮半島から退却しました。日本は、唐・新羅の連合軍が日本へ攻めてくるのではないかと考え、翌年の664年に対馬・壱岐筑紫国に防人(さきもり)と烽(とぶひ)(のろし)を置くとともに、大宰府防衛のために水城を築きました。さらに翌年の665年に基肄城・大野城・長門城を築き大宰府を守る羅城形式の大防衛線整備の一環として築造されました。

●だれがいつ造ったのですか?
 基肄城は、『日本書紀』によれば、天智4年(665)に大野城(太宰