82.飢えとのたたかい

 豊かな食生活に慣れてしまった多くの日本人には、食糧危機は無縁のことであり、遠い世界での出来事と思われているかも知れません。
 しかし、私たちの身の回りを注意深く見ると、かつて“飢えとのたたかい”があったことを伝える記録や行事、石造物などが数多く残されています。
 天保大飢饉てんぽうのだいききんは、大洪水、冷害、暴風雨が原因でした。全国では20万〜30万人が死亡したと推定されています。天明(てんめい)大飢饉(1783〜87)の経験が生かされず、対策が不十分だったことから、大塩平八郎おおしおへいはちろうの乱が起きたことはよく知られています。

飢饉(ききん)の記録
 筑紫野市歴史博物館「ふるさと館ちくしの」には、江戸時代の飢饉の惨状を伝える一冊の古記録が保管されています。本市山口地区山神の旧家に伝わっていたもので、天保7年(1836)、筑紫野での大飢饉と、そのときに非常食とされた植物名が記載されています。カシの実、クズの葉、ヨモギ、トコロ、ウワバママコシバイシズキコベなどですが、アンダーラインはどのような植物なのか、現在ではわかりません。
 この大飢饉のことは、本市立明寺の旧庄屋家に伝えられている「応年録」にも記されています。同書によると、天保11年(1840)にも大きな飢饉があったことがわかります。
  やまええんつういん  おおせがき
山家円通院の大施餓鬼
山家・円通院の大施餓鬼(1976年撮影)

 
毎年8月18日、筑紫野市山家の円通院(1615年開基。2002年2月7日、本堂焼失)では、施餓鬼供養せがきくようが行われます。施餓鬼とは、飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会ほうえ(『広辞苑』第4版)のことです。1608年(慶長13)、虫害による大飢餓が起き、筑前・筑後ではおびただしい数の餓死者が出ました。天正てんしょう(1573)以来の大戦(筑紫氏と島津氏の戦い)での惨死者を供養せず埋葬したため、その亡者が災いをなしたとされ、これを鎮めるため、開基以来、毎年行われているそうです。むかしは、大施餓鬼の日には門前に露店がいくつも軒を並べ、おおいに賑わいを見せていました。

天保飢饉の惨状を伝える古記録(山神/末岡文書)







飢人地蔵うえにんじぞう
 享保(
きょうほう)17・18年(1732・33)の飢饉では、西日本一帯に大被害がありました。一説には、福岡藩だけで10万人が死亡したといわれています。非常食の研究や、鯨油げいゆ)を用いたウンカの駆除方法が広まったのは、この飢饉以降のことです。被害の大きさは、近隣に残っている飢人地蔵(餓死した人を供養するために祀った地蔵)からもうかがうことができます。
 主な飢人地蔵は次のとおりです。
【福岡市西区】上原の六地蔵、今宿・
  徳正寺の地蔵、東松原の地蔵堂
【同市早良区】祖原・顕乗寺の地蔵堂、
  西の地蔵、野芥の地蔵
【同市中央区】桜坂の地蔵、大手門・
  浄念寺の供養塔、地行・圓徳寺の
  地蔵
【同市博多区】萬行寺の无縁塔・餓死
  塔、大浜の供養塔、栄町の地蔵堂、
  東中州の地蔵堂
【同市東区】箱崎一光寺の供養塔
【大野城市】乙金の枯骨塔、山田・慶
  伝寺の倶会一処塔
 飢人地蔵が福岡市に集中しているのは、飢餓に苦しむ人々が続々と城下町に集まり、ほとんどが福岡・博多で死亡したからだといわれています。
          (山村淳彦)

福岡市博多区東中洲の飢人地蔵

大野城市乙金の枯骨塔(ともに1985年撮影)