78.原田宿の「はらふと餅」


三国境石
往年の三国坂の姿は、現地では見ることができませんが、幕末の「原田駅家の真景」(『田嶋外伝浜千鳥』1858年所収)には、険しい坂が描かれています。
 はらふと餅が原田宿の名物といわれたのは、この坂を上り下りするために、腹ごしらえをしておく必要があったからだといわれています。一説によると、原田宿から山家宿を過ぎて、長崎街道で最大の難所といわれた冷水峠を越えるための準備であったともいわれています。いずれにしても、交通の要衝である筑紫野を過ぎるには、両所を通らねばならなかったわけで、餅の売れ行きもまずまずだったことでしょう。
 原田宿は、長崎街道にあって「筑前六宿」に数えられる代表的な宿場です。宿場の南側には、筑前・筑後・肥前三国の国境があり、その付近は三国坂(峠)と呼ばれる急峻な山になっていました。この山は、明治16年(1883)、国道建設のため開削され、同22年(1889)に九州鉄道が敷設されたときにも、大きく切り崩されました。
三国坂(原田駅家の真景)

はらふと餅屋の店先(『田嶋外伝浜千鳥』)

 
               

はらふと餅を搗いた石臼
は、大食漢でなければ腹に収めることはできません。
 この店は東構口の外にありました。絵図にみえる茅葺きの家です。餅屋がいつまで営業していたのか定かではありません。明治4年(1871)に宿場が廃止され、それに代わって新しい交通網が整備されました。人々の生活や嗜好も急激に変化していきました。そのなかで、はらふと餅も姿を消していったのでしょう。
 はらふと餅とは、形は丸くふっくらとして中に塩餡が入った薄皮の餅のことです。手のひらほどの大きさがあります。ひとつ食べただけで腹いっぱいになるので、大腹餅ともいわれ、現在の「大福餅」の語源になりました。前述の『田嶋外伝浜千鳥』には、この餅を出す店の様子が描かれています。「はらふともち」の暖簾がさがり、店先のバンコ(banco ポルトガル語で「縁台」のこと。当地では日本語として使われ
はらふと餅屋(原田駅家の真景)
ている)に座った威勢のいい男が餅を注文したのでしょう。餅が焼き上がるまで、旅の苦労話に花が咲きます。おそらく、茶を持って出てきた老婆と他の客は、話の聞き役となったに違いありません。
 江戸時代中頃の川柳句集『柳多留』には、「腹ぶとを一口くって頬を焼き」という句があります。焼きたての餅をあわてて頬張ったときの“アッチッチ”という情景が目に浮かぶようです。「ぼた餅をはらぶとにして手におへず」。はらふと餅のように大きなぼた餅(おはぎ)で
 はらふと餅を搗いたという石臼が伯東寺(筑紫野市原田)に保存されています。花崗岩をくり抜いた直径60センチほどの臼です。このほかにも、境内には、かつて無縁仏を供養するため三国峠に祀られていたという宝篋印塔(ほうきょういんとう)が移建されています。いずれも、行き場を失った遺物ですが、それをあたたかく受け入れて下さったのは、きっと“太っ腹”な和尚さんだったのでしょう。
          (山村淳彦)
〈参考〉
 西山松之助他『たべもの日本史総覧』
 新人物往来社
 日本大辞典刊行会『日本国語大辞典』
 小学館

三国峠附近の遠景。矢印のところに「三国境石」が建っています。(提供:のぶ工房/撮影:遠藤カヲル)