74.消えた牛馬祭り


▲駄祭記念碑

  「駄祭」というとダサイと読むのか、と問われそうですが、現代の若者がいう流行語とはちょっと違います。「駄祭り」とは牛馬祭りのことです。明治30年代まで、牛馬は農家の仕事に欠かせない“機動力”でした。牛馬に感謝する祭事が、伝統行事として生活の一部にもなっていました。古老の話でよく聞く「秋のダブリューの時、ドジョウ汁を食べた」というのが、実は「駄祭り」のことです。古文書には「駄風流」「駄糞流」とも書かれています。筑紫野市西小田・馬市の路傍に記念碑が建っています。いつの時代のものか「昔は近くの田圃のそばにあったのをここに移した」という話だけで、記録などは残っていません。
  「旧暦8月、田圃の水落としの時、新橋の上方に4本の笹竹を立て注連縄を張る。ご飯のお供えと竹筒に入れた神酒を笹枝に下げてお祓いをした。集会所では川で取ったドジョウ汁、吸い物が出て、にぎやかな酒宴となった」という話が伝えられています。この祭りの発祥は諸説入り乱れて、修験者たちによる駄祈祷ともいい、牛馬を川で洗うため水が汚れるので、水神様へのおわびの祭りだ、ともいわれます。
 


▲山口地区古賀のダブリュー(平成5年9月)




 

 



 

   時期は田植え前(旧暦4月、5月)に行うところとその後に行う地域がありました。戦後も一時期まで市内のほとんどの地区で開かれていた農村の純朴な祭事ですが、記念碑があるのは馬市だけです。現在では牛馬の姿を見ることはありません。
  馬市という地名の由来に関して、『黒田家譜』1735年(享保20)の頃には、次のように記されています。
  「往昔ハ当国に馬市有りて、自国・他国の伯楽相集り、馬の交易せしか、いつとなく其事やみて、五十年余に及へり。然るに馬市あれハ、国中の民に益ある事なりとて、重て馬市を起さる。御笠郡西小田村の内、野添といふ處…」(原文)。現在の馬市が「野添」なので、江戸時代初めには馬の集散地だったことがわかります。この地域は筑前・筑後の国境で、筑後・松崎宿への街道筋にあたり、馬は博多や小倉、南の久留米方面への輸送に大きな役割を果たしていました。明治維新の大変革、戦火の激動、さらに車社会への急激な変化の中で、この碑は当時の馬たちの姿をじっと見つめてきたことでしょう。



▲ダブリューの祝詞(御笠地区大石)