あまやま   ほうかじょう
 
  56.天山の烽火場


  文化5年(1808)8月15日、オランダの国旗を掲げた軍艦が長崎港に入ってきた。実はイギリスの軍艦フェ−トン号であったのだが、だまされて出迎えたオランダ人はたちまち捉えらえた。この人質と交換に食料と燃料を奪い取ったイギリス軍艦は、長崎奉行とオランダ商館長を尻目に悠々と立ち去っていった。その直後、長崎奉行松平康平は引責自殺、長崎警備当番の佐賀藩も家老数名が切腹、藩主鍋島斉直は謹慎処分になった。これが有名なフェ−トン号事件である。
  この年、長崎奉行はロシアの接近に備え、急報の手段として烽火台の準備を黒田・鍋島の両藩主に命じていた。佐賀藩では、長崎の烽火山で揚げる烽火を肥前高来郡の多良崎が見て烽火を揚げ、それを肥前三根郡の朝日山が見て烽火を揚げ、筑前・筑後の大名に知らせることにした(『鍋島直正公伝』)。
 
  福岡藩では、この朝日山の烽火を、先ず御笠郡の天山がキャッチ、四王寺山−しょうけ越え−龍王岳−六が岳−石峯山の順に烽火を揚げ、豊前小倉領の霧が岳に伝えることにし、文化6年1月20日のテストに成功。先ず天山と四王寺山に烽火台を設置した。6か所の烽火台がすべて完成したのは10月のことであった(『黒田斉清譜』)。
  藩校甘棠館(かんとうかん)の廃校で儒者から城代組の平士に落とされた亀井昭陽は、文化6年8月から7年11月までの間、6ヶ所の烽火台を次々に輪番で勤務し、詳しい「烽火日記」を残している。このうち文化6年10月の天山の烽火場勤務の一部を紹介しよう。
  当番は亀井昭陽(15人扶持)・山口民平(10人扶持)・大西長助(14石3人扶持)の3名、いずれも城代組の下級武士で、勤務は10日間であった。なお山口民平(白賁)は亀井昭陽の妹婿で、元甘棠館訓導であった。

 天山の烽火場の遠景。右下は西方寺
 童男女岩の横に残る烽火場跡?
 天山烽火場から見た朝日山
文化6年(1809)10月の日誌より
20日、 天山に到着、幸蔵が世話をしてくれる。庄屋の家に風呂に呼ばれた。
21日、
原左太夫と平嶋玲蔵が訪ねてきた。原左太夫は山家宿代官の子で、下役の箕形芳助を連れ、鶏と酒を持参した。
24日、 原左太夫の招きで、大西長助と山家宿の脇本陣介于亭(かいうんてい)に赴き書を揮毫した。
25日、 天山村の西方寺に参詣する。
  


 

▲天山烽火場から四王寺山を望む

▲長崎〜小倉間の烽火場跡

26日、

原左太夫が猟犬を連れてくる。 阿志岐の安武大成が来る。安武は宰府在住の弟、亀井雲来の生徒である。
 御笠郡下大利村天山 烽火場定番
   山本小藤太 (15石4人扶持)
いづれも無足組の藩士である。そして給米月一俵の「烽火場小使」が石峰に4人、天山に3人付けられている。
  翌年12月には、山本小藤太支配の天山烽火場には見張り番人として鬼木利七・鬼木正右衛門・鬼木和作の3人が新規に雇用され、それぞれ4石2人扶持が支給されている。この3人は現地採用と考えられる(「文化九年郡方覚」)。
  さて、この烽火番制度は結局何の役にも立たず、文化13年5月に廃止された。次の文書はこの時の天山烽火場撤去の際のもののようである(「近藤文書」)。
 明十日六つ時揃いにて天山村より下大利村まで山本小藤太様御荷物運び人足、左の通り出方御才判成さるべく候 以上
              大庄屋(以下欠)
 
28日、
秋月の藩校教授原士萌(古処)が吉田紀四郎・佐谷玄松をつれてきた。
29日、 山歩きをする。展望が開ける。北は若杉山から、四王寺山、その向こうに志賀・玄界・能古の島々がきらめく博多湾に浮かんで見える。糸島半島の唐泊から吉井岳・雷山・背振・九千部・朝日・雲仙の山々が銀の屏風のように並んでいる。広野には朝日・若江・下見・筑紫・原田・常松・永岡・二村・針摺・石崎・萩原・山口・古賀・湯町・牛島・芦城・二日市の村々が見える。烽所に着いた頃には腹も減り、酔いも醒めた。酒屋のおやじが酒を持って来た。夕方、原士萌たちが明日は藩主の詩会だからと云って帰っていった。二日市の医者中村養甫、山家の平嶋玲蔵、天山の生田良敬がやってきた。
11月1日、 里の人が別れに物をくれる。童男丱女(どうなんかんにょ)岩まで走って行き白い石に詩を書きつける。村人の話では筑後の上妻郡にも同じものがあり、徐福将軍が連れて来た童男丱女がここに移ったのだろうと云う。交代の番人が来たので下山する。
 文化9年(1812)になると、この烽火番制は北端の石峰と南端の天山の2ヶ所に「烽火場定番」一名ずつを常駐させることになっている。
  遠賀郡藤木村石峰  烽火場定番
    長冨藤右衛門(10石3人扶持)
    

 さきの「郡方覚」に山本小藤太の肩書きが「下大利村天山烽火場定番山本小藤太」となっていたのは、天山烽火場は天山村だが、山本小藤太の役宅はそこから10キロも離れている下大利村にあったことを、この文書は語っている。
                (近藤典二)