み かさ    な か ほりかわ うんが
  54.御笠・那珂堀川運河

江戸時代に二日市入船町(いりふねちょう)から博多川端町まで、運河が掘られ川船を浮かべて、年貢米(ねんぐまい)や生活物資が運ばれていました。


          二日市の入舟町付近    

1.運河開鑿(うんがかいさく)の理由
 江戸時代の年貢米や諸物資は、人が担いだり馬の背に乗せて運搬していました。このため黒田藩においても、上座(
かみつくら)・下座郡(しもつくら)(現在の甘木・朝倉地方)の年貢米を福岡の蔵屋敷に納めるためには、40〜60kmの距離を馬の背に振り分けにして2俵積み、馬1頭に人夫一人が2日がかりで運ぶというように、運搬能率は非常に悪く、人馬の疲労は甚だしいものでした。
 このため、新しく運河を開いて川船により運送すれば、人力少なくして一時に多量の年貢米や諸物資が運べるということで、運河開鑿(
かいさく)の計画が持ち上がりました。
2.寛文(かんぶん)の計画(古川)
  黒田藩第3代光之(みつゆき)公の時に上座郡志波(しわ)村(現朝倉郡杷木町)から水路を開いて、千歳川(ちとせ
がわ)(現筑後川)の水を導き入れ、上座郡、下座郡、夜須(やす)郡(現朝倉郡)、御笠(みかさ)郡(現筑紫野市・太宰府市・大野城市)を経て那珂(なか)郡(現福岡市)の比恵川(御笠川)に入れ、堅粕(かたかす)から再び水路を開いて櫛田神社前で那珂川に通し、川端町までの舟運を計画しました。
 そこで幕府の許可を受けて、寛文3年(1663)から工事にかかりましたが、道程が遠く岩盤が多くて費用も嵩(かさ)み、当時の土木技術では困難であったため中止したと藩記録や古文書には記録されています。
  ところが、正徳(
しょうとく)4年(1714)の『二日市宿庄屋(帆足甚三郎)覚書』によれば、寛文(かんぶん)3年(1663)春から工事にとりかかり、二日市入船町から博多川端町までの運河を通過し、入船町と川端町に土蔵を作り川船3艘を仕立て、1艘に米30俵を積んで同年秋から運行を開始したが、水量の不足と井堰(いぜき)や素掘り運河の改修費、船頭や蔵元手代(てだい)の人件費が嵩(かさ)み、僅(わず)か半年たらずの翌4年初めには運行を中止したと記録されています。
 このことから、上座郡志波村から二日市までの工事は完成しなかったが、二日市入船町から博多川端町までは、一応運河が通過したものと思われます。
 今も福岡市博多区井相田(
いそうだ)から板付(いたづけ)の間の国道3号線に沿って流れる水路は古川と呼ばれていて、計画水路の位置に合致し、また86年後の再計画による運河水路が新川と呼ばれていることからもこの古川水路が寛文当時の運河跡ではないかと考えられます。  
       運河のなごり(大野城市筒井)
       昭和48年頃の撮影




3.寛延(かんえん)の計画
  (新川(しんかわ))

 寛文3年の第1回計画から86年後の寛延2年(1749)、黒田藩第6代継高(
つぐたか)公の時に至り前回の千歳川から水を引く大計画を縮小して今回は二日市町から博多川端町までの計画で再度幕府に願い出て許可されました。直ちに着工して川幅3間(5.4m)深さ5尺(1.5m)の運河を寛延4年(1751)に完成させ、二日市入船町には米3500俵を納められる蔵を建て、川舟50艘で同年秋から年貢米その他諸物資の運送を始めました。
 このため川舟の始発場となった現在の西鉄大牟田線二日市駅前の、鷺田(
さぎた)川と高尾川の合流点付近の地名を、入船町というようになったのでしょう。
  舟1艘には米30俵を積みました。運賃は米1俵につき二日市宿から博多川端町まで米7合、吉松村から6合、大利村から5合5勺(
しゃく)、瓦田村から5合、雑餉隈(ざっしょのくま)から4合5勺、麦野村から4合、諸岡(もろおか)村から3合、那珂(なか)村から2合、簑島(みのしま)から1合、住吉村から5勺と定められました。
  この船着場の位置などから、新川運河の水路を推定することができます。

 ところが、この運河筋の土質が火山灰質で、素掘の運河には一雨毎に泥土が流れ込むうえに、水源となる御笠川の水量が少なく、舟底がつかえる所が

できるため、この泥土取り除きの人夫賃も嵩(かさ)み、遂に宝暦(ほうれき)13年(1763)にこの運河は廃止されました。
 廃止に伴い運河は埋められて元の田畠に戻しましたが、只(
ただ)一カ所残されていた大野城市筒井の延長800mの運河跡も、昭和55年に埋められて公園になり、今は昔の姿を何処にも見ることはできません。
4.その後の計画
 宝暦6年(1756)に再び千歳川から二日市町までの運河を掘り、二日市入船町の運河につなぐという計画が起こり、測量まで行いましたが実行されず、また、文化8年(1811)にも再び千歳川から博多川端町までの再々計画がありましたが、実行されませんでした。その後、天保(
てんぽう)年間(1830〜1844)と明治9年(1876)にも、二日市町から博多までの運河計画をした人がいましたが、これも実現しませんでした。
         (赤司岩雄)

 (参考文献
 「黒田新続家譜」「二日市宿庄屋覚書」
 「福岡藩民政誌略」  「博多津要録」
 「福岡藩年表」  「那珂村庄屋覚書」
  運河の計画図(宝暦6年(1756)) 甘木歴史資料館保管
河のルート
赤司岩雄「新川水路の追跡」昭和49年より