天山(あまやま)地区の宮地岳中腹、海抜150メートルに大小三つの美しい岩があります。ここが徐福渡来伝説ゆかりの地です。
徐福伝説は司馬遷(しばせん)が書いた『史記(しき)』のほか、多くの中国史書や文学に登場する話で、今から約2,200年前、中国を初めて統一した始皇帝(しこうてい)が不老長寿の神山、神薬を求めて東に向かわせた大船団のことで、これには大人の農工業技術者と数千人の童男女が乗っていたと書かれています。代表の徐福は一度、中国へ帰り、再び東へ向かったが、その後は帰国せず「平原広沢の地で王となり」かつ子孫は繁栄した(「後漢書」、「三国志」)と記されています。
中国から出航した地は、江蘇省■楡県と山東省竜口市ほか二、三の地区といわれています。また、河北省の渤海に面した地域には、子供たちが出航準備をした千童城(せんどうじょう)(街)、丱兮城(かんなじょう)の地が伝えられています。これに対し、韓国では済州島ともう一島に徐福伝説があり、日本列島に は20をこえる伝 |
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説地があります。このうち五大伝説地といえるのが佐賀、新宮・熊野、名古屋市熱田、富士山麓および丹後・伊根の各地で、筑紫野の天山のような巨石は、佐賀・金立山と新宮・神倉山にしかありません。徐福伝説の三大巨石といっていいでしょう。
天山の童男丱女(どうなんかんにょ)(少年と揚巻髪の女の子という意味)船繋石は、貝原益軒(かいばらえきけん)が八女や丹後の伝説とともに「附会(ふかい)(こじつけ)か」(『筑前国続風土記』)としたため、ほとんど注目されることがありませんでした。
中国では徐福集団が日本へ着いたかどうか疑う学者もいますが、多くは伝説ではなく史実だとしています。また、台湾の学者、故衛挺生教授、彭雙松氏は「徐福は神武天皇」説を発表して注目され、80年代の半ばから中国では何回も国際シンポジウムが開かれ、日本の研究者も参加しています。日本では89年、佐賀で日中双方の学者によるシンポジウムが開かれ、にわかに研究熱の盛り上がりをみせました。
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