ふなつなぎいわ   じょふく
 
   53.船繋石と徐福伝説


船繋石の遠景 下方は天山の西方寺


▲船繋石の近景



揚巻(あげまき)
             「福武国語辞典」より
 天山(あまやま)地区の宮地岳中腹、海抜150メートルに大小三つの美しい岩があります。ここが徐福渡来伝説ゆかりの地です。
 徐福伝説は司馬遷(
しばせん)が書いた『史記(しき)』のほか、多くの中国史書や文学に登場する話で、今から約2,200年前、中国を初めて統一した始皇帝(しこうてい)が不老長寿の神山、神薬を求めて東に向かわせた大船団のことで、これには大人の農工業技術者と数千人の童男女が乗っていたと書かれています。代表の徐福は一度、中国へ帰り、再び東へ向かったが、その後は帰国せず「平原広沢の地で王となり」かつ子孫は繁栄した(「後漢書」、「三国志」)と記されています。
 中国から出航した地は、江蘇省■楡県と山東省竜口市ほか二、三の地区といわれています。また、河北省の渤海に面した地域には、子供たちが出航準備をした千童城(
せんどうじょう)(街)、丱兮城(かんなじょう)の地が伝えられています。これに対し、韓国では済州島ともう一島に徐福伝説があり、日本列島に は20をこえる伝
説地があります。このうち五大伝説地といえるのが佐賀、新宮・熊野、名古屋市熱田、富士山麓および丹後・伊根の各地で、筑紫野の天山のような巨石は、佐賀・金立山と新宮・神倉山にしかありません。徐福伝説の三大巨石といっていいでしょう。
 天山の童男丱女(
どうなんかんにょ)(少年と揚巻髪の女の子という意味)船繋石は、貝原益軒(かいばらえきけん)が八女や丹後の伝説とともに「附会(ふかい)(こじつけ)か」(『筑前国続風土記』)としたため、ほとんど注目されることがありませんでした。
 中国では徐福集団が日本へ着いたかどうか疑う学者もいますが、多くは伝説ではなく史実だとしています。また、台湾の学者、故衛挺生教授、彭雙松氏は「徐福は神武天皇」説を発表して注目され、80年代の半ばから中国では何回も国際シンポジウムが開かれ、日本の研究者も参加しています。日本では89年、佐賀で日中双方の学者によるシンポジウムが開かれ、にわかに研究熱の盛り上がりをみせました。

 10歳くらいの童男童女をのせた数十の船の多くが有明海(筑紫海)に入り、諸富町に上陸する場面を描いた絵が金立(きんりゅう)神社に伝えられています。想像すれば、一行は小さな舟に乗りかえ、現在、海抜34メートル程の宝満橋(通称柴田橋)あたりに止め、天山、阿志岐、隈などに向かったと思われます。当時の海岸線から約40キロ、ゆったりと流れる宝満川をさかのぼったと考えられます。
 遠くから二つに見える巨石は、巨石や山頂、大木には神が宿るという古代人の信仰の表れだと思われます。天山の伝説は、この原始的な信仰と中国史書『隋書(
ずいしょ)』から来ているものといえます。7世紀、中国の使者は「竹斯(つくし)国から東に行くと秦王国がある」と書きました。この国がどこであるのか、内外で論争がありますが、博多湾岸や有明海岸から遠くない所だとも考えられます。もし巨石を土地の美化伝説に利用するなら、分かりにくい童男丱女船繋石よりも神功皇后(じんぐうこうごう)伝説(宇美、背振、嬉野など)に結びつける方が有利だったはずです。それを地味な船繋石とした所
に、の伝説の真実味があるのではないでしょうか。
 なお、天山地区には「不老キウ」という字(
あざ)があった(『筑前国続風土記附録』)ほか、戦前まで巨石のあたりには「東南冠者」(とうなんかんじゃ)の地名がありました。また、天山一帯の山野には「一寸あやめ(別称イッスン)」が野生して不老長寿の薬として珍重されていましたが、80年くらい前に消滅したとのことです(市史編さん室談)。
         (壱岐一郎)


金立神社の縁起図(部分)
(写真・佐賀市教育委員会提供)
同神社の祭神である徐福が上陸する場面が描かれて
いる。

徐福伝説の分布