ふだ う
50.宝満詣り(彦山)詣りと 「札打ち

                            

笈摺(おいずり)       

宝満竈門山の絵図(『筑前名所図会』)

男女とも16歳の成人儀礼
  人生で定められた年齢になると行われる通過儀礼(人生儀礼)には、誕生、成年、結婚、厄年、年祝い、葬儀などがあります。いわば個人的なハレ(日常とはことなる改まった生活)の時であるのと同時に、社会生活により深く関わりの出来る機会になるのです。
  昔は、幼児のお祝い「七五三」をすますとムラの少年少女として認知されることになりました。男三・五歳、女三・七歳でそれぞれ成育儀礼があります。男七歳は「へこかき」、女七歳は「ゆもじ祝い」ともいわれます。そして男女とも数え十六歳、(高等小学校卒業)になるとりっぱに大人の仲間に入るのです。つまり成人式がこの年にあたるわけです。


宝満詣り
  筑紫野市内では、古くから成人儀礼の一つに数え年十六歳になった男女が宝満山(筑紫野市と太宰府市の境界)に

参る「十六詣り」という行事が行われていました。 宝満神が玉依姫命(たまよりひめのみこと)ということから女は「良縁が授かる」とされています。男は「小遣銭に不自由しないようになる」ともいわれています。四月十六日(一月十六日の地域もある)になると、ムラの十六歳になった男女がそれぞれグル−プをつくり、友人同士や個人で宝満山、竈門(かまど)神社に参りました。宝満詣りには親類などからご祝儀をもらうので、太宰府のお土産をムラに帰ってから配って回りました。こうして社会的な成人としての認知を受けたものです。農家や商家に働きに出てオトコシ(男衆)オナゴシ(女衆)になると賃金にも格差がつくようになりました。
  昭和時代に入って遊興の場所がふえてくると“宝満詣り”と称すれば公然と休みがとれることから、博多(福岡市)へ映画見物、買い物、食事など若い人たちの遊びの口実ともなっていましたが、こうしたことも太平洋戦争を境になくなりました。



 
▼すげ笠に手甲、脚絆姿で“宝満詣り”も若い女性
たちの楽しいイベント

▲“酒迎え”を受けてオハヤシ入りでムラへ帰る。

「彦山まいり」は、青年たちが一人前になるための
儀式のような催し

彦山詣り
  一方、男性には成人儀礼にあたる「彦山詣り」がありました。「彦山詣りもしていない者には嫁にやるな」など市内の各地で言い伝えられていたようです。ムラごとに十数人集まると早春の農閑期に田川郡添田町の英彦山に出かけていました。青年会(その以前は若者組)に加入すれば、四〜五年ごとにこの行事が実施されました。編み笠をかぶり、そ
ろいのラシャの筒袖に半纏(はんてん)、パッチ、脚絆(きゃはん)に草鞋((ぞうり)昭和期になると地下足袋)という服装だったようです。二泊三日(彦山、小石原村に宿泊)がほとんど。帰途は甘木、針摺、柴田川畔(現 宝満川)などまでムラの世話役が酒肴で持って出迎える“酒(さか)迎え”があり、三味線、シャモジをたたきながら帰りつくというにぎやかさでした。また、紅白のもち、升酒がふるまわれることもありました。
  ムラでは親たちがお礼の宴の用意をして歓迎するほど、この彦山詣りは農家の後継ぎとしてムラに認めてもらえる儀礼でもあったのです。朝倉軌道(昭和十五年廃止)で甘木まで出る以前は往復とも徒歩。この彦山詣りは、昭和十年前後で途絶えました。わずかに、市内大石では戦後の昭和二十年に彦山詣りをした人々がいます。
                (村里徳夫)

札打ち
  処女会(後の女子青年団)の“札打ち”はムラの人々の注目を集めていたようです。春三月の彼岸ごろ、嫁入り前の年ごろになった娘さんたちが十数人、旧御笠郡(現在の筑紫野・太宰府・大野城市域)内の三十三カ所の観音霊場を巡拝しました。かすりの着物の下に赤い腰巻きを少しのぞかせて、手甲、脚絆、すげ笠に笈摺(
おいずり)(紅白のハッピのようなそでなし)という揃いの装束姿は、青年たちには魅力的だったでしょう。笠には「南無観世音菩薩」「南無大師遍照金剛」や「同行二人」と墨書があり、ご詠歌を唱え、鈴をふりながらの巡礼でした。三泊四日ぐらいで、親戚や知人の家などを宿にしました。地元は、「接待をすると功徳を積む」と信じられ、宿になった家や札所では、近くの人々によるお茶や菓子の接待がありました。また、そこが“嫁選び”の場所になることもあったそうです。
  札打ちの語源は、大師様の姿が刷り込まれたお札(昔は木札)を札所やお接待を受けた家に納めたことに由来するようです。