−片腕の南画家−

     よしつぐ はいざん

49.吉嗣拝山

  吉嗣拝山(よしつぐはいざん)は郷土を代表する南画家(なんがか)です。弘化(こうか)3年(1846)6月、町絵師として活躍した梅仙(ばいせん)の長男として太宰府で生まれました。本名は達太郎(たつたろう)といい、別名を士辞(しじ)、蘇道人(そどうじん)、古香(ここう)、獨臂翁(どくひおう)、獨掌居士(どくしょうこじ)、左手拝山(さしゅはいざん)とも称して広く親しまれました。「獨臂」とは片腕という意味です。拝山の生涯については断片的にしか知られていませんが、ここでは拝山が自ら語った生い立ちを、大正3年の「九州日日新聞」記事からたどってみましょう。
  父梅仙の豪放な画道生活のため家庭は貧しく、拝山は13歳から太宰府の三条町にあった六度寺の宿坊で働きはじめました。向学心に燃える拝山は、1〜2年のち本田竹堂(
ほんだちくどう)をたよって岩潭書塾(がんたんしょじゅく)に入り、19歳のときには、日田の広瀬淡窓

(ひろせたんそう)にあこがれて咸宜園(かんぎえん)に入門しました。志しは高かったものの学資はなく、毎晩12時前後まで按摩(あんま)の内職をしながら勉学を続けたそうです。入門3年後、小倉戦争が勃発し、その影響で日田も混乱したため、太宰府に帰郷。それは慶応3年(1867)のことでした。 ところが、太宰府も「五卿落ち」で騒然としていたので、中西耕石(なかにしこうせき)の門に入るため京都へ上りました。22歳の春でした。やはり学資を補うため、一日に扇面50〜60本を書かねばならなかったそうですが、拝山はここで初めて画道に志したと追憶しています。やがて明治維新となり、政府は優秀な書生を採用しはじめたので、明治元年、拝山は耕石の門を出て備中倉敷県の役人となりました。赴任してみると、備前の兵が武装して役所を明け渡さないので、止むを得ず大庄屋の別荘を借りて「


 

▲特別馬車で二日市駅から太宰府へ向かう土方伯爵(中央)。その左が吉嗣拝山。二日市中央通りで撮影されたものと思われる。(大正2年10月)    

▲拝山没後に催された「遺墨展」に集まった人々。左から3人目が萱島秀山、2人おいて吉嗣鼓山(拝山の長男)
右腕を失う前の吉嗣拝山。
幕末頃の撮影と思われる。

倉敷県」の門札をかけ、形ばかりの役所としたそうです。翌年には東京へ出て半年ほど役人生活を送ったのち、亀谷塾に住み込んで30人ほどの塾生の世話をしながら勉強を再開しましたが、一年もしないうちに資金は底を尽いてしまったので、同4年(1871)2月から太政官記録編輯局に勤めるようになりました。ところが、同年7月9日の出勤途中、大風雨によって神田橋内で倒壊した家屋の下敷きになり瀕死の重傷を負いました。そして、拝山は右腕を切断する大手術を受け(26歳)、4ヶ月間に及ぶ入院生活を送ることになりましたが、この事故を境に拝山の人生は大きくかわったようです。退院後は英文を学んだりもしたようですが、やはり少年時代から親しんできた南画に一生を捧げることを決意し、みずからの右骨で作った骨筆をたずさえて各地を漫遊しました。中央の画界では欧化主義が隆盛をきわめ、南画はすでに過去のものとなりつつある時代でした。しかし、拝山は同11年(33歳)の春から中国に遊学し、楊洲・蘇洲を経て杭州西湖の景観を目の当たりにし、傑士(けっし)とも交流を深めて詩・書・画の三道の研究に励みました。帰国後も漫遊を続け、その甲斐あってか太宰府に帰郷してからは、全国から揮毫(きごう)依頼が山をなしたといわれます。藤

瀬冠邨(ふじせかんそん)らの弟子を育て、晩年は浪花の商人、中村伊三郎が拝山のために建てた六甲山の別荘で悠々自適の日々を過ごすこともありましたが、大正4年(1915)1月11日、病のため70歳で生涯を閉じました。
  拝山が亡くなる前年に語った、画家としての人生訓をご紹介しましょう。
  「畫家は猶藝者の如きものだ。餘り知られても困る、餘り知られぬでも困る。畫家としての一番楽しい時代は、何うしても漫遊中で、氣が向けば書き、向かねば書かぬといふのでないと、責め立てられて書くやうでは、なかなか堪ったものではない。(中略)何でも満身に力が篭った時でないと、眞ん物は出來ぬもので私の經験から見ても、窮餘の畫には、総じてよいものが出來るようである。(中略)繪にしても何にしても、具さに人生の辛酸を嘗めて來た後でないと、實際の味は出て來ないもので、容易にまたその味に食ひ入ることも出來ぬものである。
               (山村 淳彦) 〈参考〉
(1)「拝山画伯の半生」
   大正3年3月23日付 
   九州日日新聞掲載記事
(2)鬼木忠造『拝山先生之片鱗』
    昭和10年1月11日