ちく ぜん たけ やり いっ き
45. 筑前竹槍一揆

  明治6年1月は太陽暦(新暦)が最初に施行された年である。5年12月は1日と2日しかなく、翌日はもう元旦だった。それまで使われていた太陰暦(旧暦)は廃止された。したがって、この年6月は、本来ならば梅雨の最中だったはずだが、九州は雨が一滴も降らない異常気象となった。たんぼの土はひび割れ、田植えの時節だというのに水がない。多くの農民がお宮に籠って雨乞に努めた。
  その頃の福岡県は、現在と違い、筑後は三瀦県、豊前は小倉県と言い、旧福岡藩領・秋月藩領に当たる筑前地域だけが福岡県であった。その福岡県の東端、嘉麻郡(現在の嘉穂郡の一部)高倉村日吉神社で雨乞をしていた人々が、小倉県との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、夜は火を焚いて合図をしている者があるのを知って、抗議に押し掛けた。これは「目取り」と言って、米相場の高低を山伝いに連絡して一儲けしようという連中だった。
 これをきっかけに、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こるのである。きっかけは金国山の出来事に過ぎなかったが、一揆が筑前全域へと広がったのは、底流として民衆の間に政府への強い不満があったことが考えられる。
この前後、西日本各地に同じような大規模な一揆が起こっていた。太陽暦もそうだが、政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令…。 神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、うむを言わさず変更されていった。民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はない。一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象として数え上げた。
  一揆はほぼ4つのグル−プを作って行動した。東から、南から、西から、それぞれ福岡県庁のある福岡城へと向かった。御笠郡は南から来た朝倉地方の一揆勢に加わっていたが、このグル−プは北上して板付まで行ったところで、説得されてUタ−ンしたとされる。その他、早良郡で活動した一揆もあった。一揆勢には全体を見通す司令部があったわけではなく、当時の通信手段のもとで、相互の連携など取れるはずもなかった。
▲一揆が通過した道
(大宰府市大字南〜筑紫野市大字二日市)

▲福岡城大手門には今も竹槍で突かれた
跡が残る

       竹槍
明治6年、筑前竹槍一揆で使用されたもの。10万人が参加したといわれる
(福岡市博物館蔵」)

 
 

▲日吉神社(庄内町)ここから一揆ははじまった  
刑など処罰を受けた人の数は6万4千人に上った。実際には当時の福岡県の人口43万余の内、10万人ほどが参加したと考えられている。ほぼ1軒に1人の割合である。筑紫野市域を含む御笠郡(当時第12大区と言った)からは、別表に見る通り、附和随行者として処罰を受けた人が、3,073人いた。
  東から来た一揆は、福岡城へと入り、官舎を焼き、県庁を打ち壊した。県には収拾する能力がなく、政府はついに陸海軍を鎮圧のため派遣した。この間、各地で旧庄屋・大庄屋など村役人層の家が襲撃され、博多などでは豪商が被害を受けた。今でも梁や床柱に一揆に襲われた際の傷跡を残している家を見ることができる。各地で被差別部落が焼き討ちを受けたが、これは一揆が「解放令」に反対し、「解放令」をてこに人間として誇りを持って行動しようとした被差別部落の人々に反感を募らせた結果であった。このように激しく、大規模な一揆であったから、4人が死刑となったのをはじめ、懲役     明治六年九月二十日申渡
 其方共儀、党民ニ誘ハレ随行致ス科、賊盗律兇徒聚衆条例附和随行シテ勢ヲ助クル者ヲ以テ論シ、笞三十之贖罪金弐円弐拾五銭宛申付ル
  但シ、年十五以下タル者ハ、収贖金七拾五銭宛申付ル
   明治六年九月
  このように、附和随行は笞30(尻たたきの刑)に当たるが、大多数の人は2円25銭を払って刑を免除された。注意しなければならないのは、この一揆がいわゆる百姓一揆ではなかったことである。一揆の要求は、農民固有のものでなく、一揆の参加者も農民だけでなく、各階層に及んでいた。
                (石瀧豊美)
                                                                  
第12大区(御笠郡)の附和随行者数
                                    (人)
小区 所 属 村 名 随行者計 内15歳以下 脱 走 死 亡 無力人
1 山家天山下見 278 5 1   1
2 岡田筑紫諸田常松永岡立明寺 204 1      
3 西小田若江原田 194        
4 萩原山口上古賀古賀平等寺 295        
5 阿志岐牛島針摺俗明院 170 1      
6 吉木大石柚須原内山本導寺香園 253        
7 宰府・北谷 563 6 1 1 4
8 観世音寺・坂本・国分・通古賀・片野 235 2 1 1 20
9 二日市武蔵・塔原石崎 337 1      
10 牛頸・杉塚・向佐野・大佐野 220 1      
11 白木原・瓦田・下大利・上大利・吉松・水城 203 2   1  
12 乙金・中・仲嶋・畑詰・山田・筒井 121        
    3,073 19 3 3 25
朱字は筑紫野市域の村。「無力人」とは、資力に乏しく贖罪金を払えなかった人をさす。
したがって、実際に苔30の刑を受けたのは、この人たち
である。