ながおか
  37.永岡遺跡(1)
−発掘調査の概要

  永岡遺跡は、筑紫野市大字永岡にありました。昭和47年、昭和55年、昭和63年の3回の発掘調査が行われ、遺跡をほぼ完掘することができました。その結果、甕棺墓(かめかんぼ)を主体とする弥生時代中期の墓地だったことがわかりました。西暦でいうと、紀元0年を挟んで前後100年くらいの期間をさします。さらに、出土品から中期でも前半に当たることもわかりました。墓地は、北から南へ細長い範囲で営まれ、墓地の範囲は、全長105m、幅14mあります。この範囲の中に甕棺墓153基、木棺墓(もっかんぼ)9基、土壙墓(どこうぼ)21基が造られていました。

(1)墓の特徴
  この遺跡(墓地)は、出土した甕形土器から判断して、墓地のおおむね北側から順に南側へと造られ、成人棺が東西の二列に並び、その外隣りに墓地の範囲を示す土壙(
どこう)やこれを結ぶ溝が掘られています。墓域(ぼいき)を示す遺構の中には壺や甕等の土器を収め、祭祀(さいし)の場としています。このような埋葬様式を二列埋葬と呼んで

います。

(2)遺体は何に埋葬されたか
 遺体はどのようにして埋葬されたのでしょう。永岡遺跡からは、甕棺墓、木棺墓、土壙墓が発見されました。
 甕棺墓は甕形の土器を使用したものです。成人には大形の甕を、小人や幼児には小形の甕を用います。成人用のものは、埋葬用として作られたもので、二つの甕の口と口を合わせ、棺としています。小人や幼児用のものは、日常生活で使っていた甕や壺を転用したものが多く、成人棺と同様に二つの甕の口と口を合わせ、棺としていますが、なかには、3個の土器を用いているものもあります。
 木棺墓は大きな長方形の竪穴を掘り、この中に木の板を組み合わせて棺を作りました。この板を安定させて組み合わせるために、先人の苦労した跡が竪穴の中に残っていて、その痕跡から木の棺とわかるのです。


昭和55年発掘調査

 



 
 

 土壙墓は、ほぼ長方形に穴を掘り、そこに遺体を埋めたものです。
 土壙墓は原始よりみられる埋葬方法で、また甕を使ったものは縄文時代の後期からみられます。しかしながら永岡遺跡で発見されたような甕棺葬は弥生時代の特徴的なもので、その範囲も、福岡県、佐賀県を中心にその周辺にほぼ限られています。この埋葬方法は前期末頃から増え始め、中期に入って最も多用される葬法で、北部九州の弥生時代の大きな特徴となっています。この甕棺葬は後期まで続きますが、中期に比べ非常に少なくなります。

(3)墓の構成から何がわかるか
 甕棺墓だけから判断しますと、全部で153基の甕棺墓がありますが、このうち成人用44基、小人・幼児用109基で、構成比は29%と71%となり小人・幼児の死亡率が高いことがわかります。
 また、成人棺は整然と並ぶように埋葬されていますが、小人・幼児棺はそのような約束はありません。しかし、必ずと言ってよいほど成人棺と重なって埋葬されています。

(4)残っていた遺体
 酸性が強い日本の土で、木棺墓や土壙墓には遺体はほとんど残っていませんが、密封性に優れた甕棺墓には人骨遺体が残っていることがあります。永岡遺跡では成人41体(男性17体、女姓23体、性別不明1体)、小人・幼児12体が発見されました。また、骨を詳細に観察してみると3体に外傷、骨折痕がみられ、2体に顎関節(
がくかんせつ)の異常が認められました。そのほか、銅剣(どうけん)の切先(きっさき)が骨に突き刺さっていたものが2体あり、うち1体は石剣の切先も体に刺さっていたようです。また、石剣の切先が刺さっていたと考えられる木棺墓も1基ありました。

(濱田信也)


▲成人棺(U−SK74)

▲小児棺(U−SK37)

▲木棺墓(U−SM11)

▲土壙墓(U−DD4)