33.二日市(4)−湯  町


▲湯町に建つ万葉歌碑(書家 古賀井卿氏の筆)


▲薬師如来をまつるほこら

 

  「湯の原に 鳴く葦鶴は 吾が
 ごとく 妹に恋ふれや 時わか
 ず鳴く」
 日本最古の和歌集『万葉集』巻第六に収められている大伴旅人の歌です。この一首は、大宰帥(
だざいのそち)(大宰府の長官)として九州に下った旅人が、この地で不幸にも妻大伴郎女(おおともいらつめ)を急病で亡くし、その深い悲しみを湯の原に鳴く鶴の姿にたくして詠んだもので、二日市温泉(次田温泉、武蔵温泉)がその舞台であるといわれています。神亀(じんき)5年(728)から天平2年(730)の旅人在任中には、すでに温泉が噴き出していたことが推定され、今も「湯の原」という小字が残っています。
 「世の中は 空しきものと知る
 時し いよいよますます 悲し
 かりけり」
  仏教思想にふれた歌人旅人の心情があふれています。
  平安時代末期の『梁塵秘抄(
りょうじんひしょう)』には「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈、九兼丈、十には国分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生…」と大宰府官人、侍従、僧などの入浴の順番が記載されています。さらに、かぐや姫で有名な『竹取物語』には「筑紫の国に湯浴みにまからむ」とあり、“筑紫の湯”が次田温泉にあたるのではないかとする説もあります。

 承徳元年(1097)正月6日、詩歌で有名な大宰権帥(ごんのそち)の源経信が死去した際、子の俊頼(としより)が次田温泉を訪れています。父子で、平安時代後期に多くの和歌集を編纂しました。
  戦国時代、湯町は度重なる戦乱に巻き込まれたのか、ほとんど資料が残っていません。
  また、武蔵寺縁起によると、同寺創建にゆかりのある藤原虎麿(
とらまろ)が、愛娘瑠璃子(るりこ)姫の病気を、この温泉で治したとされています。
  武蔵寺縁起絵図は近世になって製作されたようですが、「瑠璃子入湯」「湯町繁盛」の光景が色彩鮮やかに描かれています。
  江戸時代になると黒田藩が二日市を日田街道の宿場に決め、御茶屋(本陣)を置いて隣接の温泉には「御前湯」を設けました。藩主が入湯したことから、その名がついたようで、最も古い記録では元禄2年(1689)に黒田綱政(
つなまさ)が国中の宿駅を巡覧した際に入浴しています。
  同藩の儒者(
じゅしゃ)・貝原益軒(かいばらえきけん)(1630〜1714)は著書『筑前国続風土記』に「温泉四所にあり。癬瘡(せんそう)(できもの)をよくいやす功ありとて、遠近より来り浴する者多し。」と記しています。
 

▲昭和14年(1939)ごろの湯町        

▲川の上を道路にした後の湯町。正面の建物は、
往年のなごりをとどめる「川湯」
 

  ところが、この湯町はたびたび火災に見舞われました。「岩松日記略」(福岡県史資料)によると、嘉永五年(1852)7月1日夕、大雨と雷が激しく、御前湯に落雷して全焼、隣家まで焼失しました。その年は旱魃(かんばつ)のため、天拝山上で雨乞をしたあげくの悲劇でした。慶應4年(1868)春には、田代屋から出火して御前湯も類焼し、御成の間と助湯までことごとく焼けたようです。被害は民家を含め42軒のほか納屋などにも及びました。明治10年5月にも木屋から出火して角屋、対馬屋、肥前屋など24〜5軒が焼失し、この時も御前湯が焼けました。江戸時代から明治初期までの記録に残る主な大火です。この時代は武蔵温泉と呼ばれたころで、同22年の九州鉄道(現JR)

の開業をきっかけに温泉観光地として変貌しました。十数軒の旅館が競って浴場を開いたほか、区有財産の御前湯、薬師(やくし)湯、川湯を民間の経営者にまかせて、近代化を進めました。このうち、川湯は昭和7年の豪雨で崩壊したため、その上を街路として舗装し現在に至っています。御前湯は筑紫野市福祉センターに建て替えられ、薬師湯は、その跡に薬師如来像をまつるだけになっています。昭和40年代の湯町には、旅館が20数軒ありました。

〈参考〉太宰府天満宮『大宰府・太宰
    府天満宮史料』
    松尾光淑『武蔵温泉誌』
    高木市之助他編『万葉集』
    日本古典文学大系
    二日市町役場『二日市小史』

                (村里徳夫)

 


▲『福岡県名所図録図絵』にみえる湯町。原図は、明治24年2月27日に出版された銅版画。