す ざく おおじ
   
32.朱雀大路

  奈良時代の根本史料である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の神護景雲(じんごけいうん)三年(769)の条に大宰府のことについて「この府は人物殷繁にして、天下の一都会なり。」という一節がある。この一節は当時の都市としての大宰府の一面を示すものとして、よく引用されるが、現在国の史跡として保存されている政庁跡に残る礎石をみても、かなりの規模の都市であったことが推測できる。この大宰府にも平城京や平安京などの都京と同じように条坊制(じょうぼうせい)が敷かれていたことは、早くから指摘されていた。

  条坊制とは中国の唐の制を模倣したもので、東西、南北に走る街路で碁盤の目のように区画して街区を構成したもので、いわば古代の都市計画といったものである。大宰府の条坊制については、故鏡山猛先生(九州大学文学部教授)の研究による復元案がこれまで唯一のものであり、現在進められている発掘調査でも準拠とされてきた。先生の復元による大宰府の条坊制は次のとおりである。まず中央北端にある政庁から南に中央の大路がのびる。これが都の朱雀大路にあたる。これを境に左郭(東)と右郭(西)とに分かれる。この左郭と右郭は一町四方(約108m四方)を単位とする街区に区画され、その南北の街割りを条、東西を坊とよ

ぶ。この街割りは、北から一条、二条…、中央大路を中心にして東西にそれぞれ一坊、二坊…とよばれ、南北二十二条(約2.4km)、東西二十四坊(約2.6km)である。(ちくしの散歩『二日市1』参照)以上が鏡山復元案である。さて、この条坊制の基準となる中央の大路、すなはち朱雀大路はどの程度の規模のものであったであろうか。ここで平城京の場合をみてみよう。平城京は早くから遺存地割りによって研究が進められてきたが、昭和48年、奈良国立文化財研究所の調査によって具体的な規模が明らかにされた。それによると道路幅員は23丈4尺(70m)側溝は4m程度と考えられている。また万葉集の大伴家持の歌から街路の両側には柳が植えられていたと推測される。大宰府の場合、街路の幅員については一切不明であり、鏡山復元案でもそのことについては触れられていない。ここで裏の航空写真を見ていただきたい。写真の中央よりやや左寄りの筑陽高校の西側から道路、畦によって区画された幅の狭い田が、やや蛇行しながら南へ延びているのが読み取れるが、これはおそらく大宰府条坊制の中央大路、すなはち朱雀大路の遺存地割りと考えられる。   

▲国道3号線沿いの旧筑紫野警察署の南側で
発見された朱雀大路の西側溝(写真右側の溝)

 

 

 昭和62年、太宰府市教育委員会はこの遺存地割りに沿った榎寺東側の一画で発掘調査を行い、南北方向に延びる奈良時代の溝を検出した。この溝は条坊中心線から東へ19.7mの位置にあり、周辺の状況から中央大路の東の側溝と考えられた。さらに平成3年には筑紫野市教育委員会の発掘調査で、今度は西側の側溝とみられるものが検出された。場所は政庁跡南門から南へ1460m、国道3号線沿いの旧筑紫野警察署の南側である。この溝は条坊中心線から西へ16mの位置にある。この二条の溝は中心線からの距離に誤差があるが、

これらの数値を参考にすると大宰府の中央大路(朱雀大路)の幅は約35m前後であったと推定される。この規模は平城宮の半分にすぎないが、大宰府条坊の面積が平城宮の4分の1であったことを考えると、幅の広い道路であったといえる。また現在の道路と比較しても一級国道並みの道路に相当するであろう。

〈参考文献〉
 1.鏡山猛『大宰府都城の研究』
   1968.6
 2.大宰府市史編集委員会
  『大宰府市史』考古資料編 1992.4

(石松好雄)



▲この写真は、建設省国土地理院撮影の空中写真を使用しました。