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二日市北小学校の近くの「鬼(き)の面(めん)」バス停から曙町の住宅街に入ると、民家の塀から道路に突き出した大石があります。これが“なまず石”の「胴」といわれ、その庭先に「尾」といわれる小岩があります。「頭」は市道の向い側の崖の急斜面にあります。
昔、菅公がこのあたりを通りかかると、大なまずがいつものように顔を出して、川を渡らせようとしません。菅公は、太刀を振ってなまずを退治しました。不思議なことに頭、胴、尾の三つに切られたなまずは、いつのまにか石の姿に変身したということです。
後になって、日照り続きで田んぼの水が無くなった際、この石に酒をふりまいて洗えば雨が降るといわれ、“雨乞(あまご)いの石”として地元の人々に大事にされてきました。
この石から西南の大字紫に石井戸(今は不明)というのがあり、ここから上にはなまずはいませんでした。しかし明治6年の旱(かん)ばつに際して雨乞いのためこの石を焚いたところ石が裂けて、なまずが生れる
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ようになったといわれています。
菅公伝説には「なまず」のほかに「蛙」(かえる)にまつわる説話が、太宰府に伝わっています。
榎(えのき)社に住んでいた道真公は、京都から一緒に流されてきた幼い子ども2人をつれて、夕暮れに館(やかた)のまわりを散歩していました。ふと小さな池を見ると、たくさんの蛙がおり、親子や兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげています。その声を聞いているうち、道真公は、離れ離れになった家族のことなどを思い出して詠んだつぎの一首があります。
「折りに逢へば これもさすがに うらやまし 池の蛙の 夕暮れの声」
ところが、この歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真公たちの心を察したのでしょう、この後、蛙が鳴かなくなったということです。
この2人の子どものうち紅姫(べにひめ)の供養塔といわれる石の板碑が筑紫野市京町にあります。梵字(ぼんじ)が刻まれていますが風化して読めません。そこから歩いて4〜5分の太宰府市南に、もう一人の隈麿(くままろ)の墓(自然石)があります。 |
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