かんこう
   23.菅公
伝説(2) 


▲菅公によって切られた「なまず」が化身した石の「胴」とガケにある「頭」
  
なまず石

 二日市北小学校の近くの「鬼()の面(めん)」バス停から曙町の住宅街に入ると、民家の塀から道路に突き出した大石があります。これが“なまず石”の「胴」といわれ、その庭先に「尾」といわれる小岩があります。「頭」は市道の向い側の崖の急斜面にあります。
  昔、菅公がこのあたりを通りかかると、大なまずがいつものように顔を出して、川を渡らせようとしません。菅公は、太刀を振ってなまずを退治しました。不思議なことに頭、胴、尾の三つに切られたなまずは、いつのまにか石の姿に変身したということです。
  後になって、日照り続きで田んぼの水が無くなった際、この石に酒をふりまいて洗えば雨が降るといわれ、“雨乞(あまご)いの石”として地元の人々に大事にされてきました。
  この石から西南の大字紫に石井戸(今は不明)というのがあり、ここから上にはなまずはいませんでした。しかし明治6年の旱(かん)ばつに際して雨乞いのためこの石を焚いたところ石が裂けて、なまずが生れる

ようになったといわれています。
  菅公伝説には「なまず」のほかに「蛙」(
かえる)にまつわる説話が、太宰府に伝わっています。
  榎(えのき)社に住んでいた道真公は、京都から一緒に流されてきた幼い子ども2人をつれて、夕暮れに館(やかた)のまわりを散歩していました。ふと小さな池を見ると、たくさんの蛙がおり、親子や兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげています。その声を聞いているうち、道真公は、離れ離れになった家族のことなどを思い出して詠んだつぎの一首があります。
 「折りに逢へば これもさすがに  うらやまし 池の蛙の 夕暮れの声」
  ところが、この歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真公たちの心を察したのでしょう、この後、蛙が鳴かなくなったということです。
  この2人の子どものうち紅姫(べにひめ)の供養塔といわれる石の板碑が筑紫野市京町にあります。梵字(ぼんじ)が刻まれていますが風化して読めません。そこから歩いて4〜5分の太宰府市南に、もう一人の隈麿(くままろ)の墓(自然石)があります。


 

▲斧を摺って針を作る翁と官公の絵図(筑前名所図会)と針摺石   

針摺石

 西鉄朝倉街道駅に近い針摺(はりすり)地区の住宅街のはずれに高さ2メートル余りの自然石があります。その石には阿弥陀三尊(あみださんぞん)を表す梵字(ぼんじ)が刻まれ、「観音」として信仰をあつめています。
  昔、天判山(てんぱんざん)(天拝山(てんぱいざん))に登った菅公(かんこう)が帰り道にここを通ると、一人の翁(おきな)が斧を石にあてて一生懸命に摺っていました。不思議に思って「何をしているのか」と尋ねたところ、翁は「この斧を摺りへらして針を作っているのです。」と答えました。菅公はこれに感動、何事も精勤を重ねれば成就できるものと悟り、再び天判山に引き返して、天に無実を祈ったと伝えられています。斧を摺っていた石を「針摺石」といい、地名を「針磨」、後に針摺と書くようになりました。  

鍬柄橋
 
なまず石の近くに菅公にちなんだもう一つの伝説の地があります。菅公は曙町付近の高尾川にさしかかった時、橋がなくて渡れず困っておられました。その時、通りかかった農夫がとっさに担いでいた鍬(
くわ)の柄()を差し出して、橋のかわりにしたということです。それからこのあたりの川を「鍬柄(くわのえ)川」ともいい、今もここにかかった橋を「鍬柄橋」といいます。





【参照】『太宰府伝説の旅』
     『筑前の伝説』
     『天神伝説のすべてとその信仰』
 筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』では、山のふもとにあったのを近世になって道路のかたわらの林の中に移したとあります。この道路は旧日田街道にあたり、朝倉街道とも呼ばれています。「山のふもと」というのは、針摺峠かも知れません。かつて太宰府詣りの「肥前道」に沿ってあったとすると、天神信仰の説話とも結びつくようです。
▲官公が鍬柄を橋がわりに渡ったとされる「鍬柄橋」