筑紫野市指定無形民俗文化財
      かゆうら  ちくしぐう
  21.粥卜筑紫宮の農業祭事

▲「筑紫」国号起源の筑紫神社

▲文化2年の銘が刻まれた銅製の粥鉢とカビの発生した粥。


▲拝殿前に判定と一緒に展示

粥卜祭

 10世紀初めに記された「延喜式(えんぎしき)」に名神大社として筑紫神社(筑紫野市大字原田(はるだ))は登場します。市内で最も古い歴史のある神社です。
  それより古く、奈良時代の「筑後国風土記逸文(ちくごのくにふどきいつぶん)」によると、筑前・肥前国境に険しい坂があり、そこを通る馬の鞍(くら)がすりつくしたとか、坂の上に麁猛神(あらくたけきかみ)がいて通行人の命をつくしたとか、その死者を葬る棺を作るため山の木を伐りつくしたので筑紫君(ちくしのきみ)と肥君(ひのきみ)が筑紫神(つくしのかみ)を祭ったという説話が有名です。
 「筑紫」の国名の由来とともに筑紫神社の起源ともいわれています。
  同社縁起では祭神にウガヤフキアエズノミミコト(母は玉依姫(たまよりひめ))、五十猛命(いたけるのみこと)

 (父は素盞嗚尊(すさのをのみこと))とあります。
  奈良時代の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』では、筑紫神が従4位に昇格した記録もあるほどで、神社の格式が高かったことがうかがえます。
  同社の祭事は、『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』では、年4回、その一つ旧暦2月初卯(はつう)日に催されたことが記されています。
  この2月初卯にあたるのが現在3月15日の「粥卜祭(かゆうらまつり)」です。このちょうど一ヶ月前の2月15日の早朝、祭事にあたる宮座(みやざ)の氏子(うじこ)たちが正月に奉納されたお捻りの米を持ち寄って、神官が粥に炊いて鉢に盛りつけます。宮座で使った箸(はし)で粥面を東西南北の十文字に分け、東は豊前、西は肥前、南は筑後、北は筑前と名札をたてます。中心が筑紫神社というわけです。神殿の中で30日を過した粥鉢は、3月15日未明になって、潔斎(けっさい)した神官の手によって神前から下ろされ、氏子代表


 

▲2月15日、古式にのっとって火切りで火をとり、
カユを炊きあげる

  


▲3月15日、早朝、神前のカユ鉢を下げ
 氏子総代などで豊凶を判定する

が集まって「粥判定」をします。昭和59年、筑紫野市無形民俗文化財に指定されています。  この「粥卜」は、筑紫神社の「粥卜判断」書にしたがって、つぎのような判定が下されます。
  一、粥面黄色を帯びたるハ極上吉
  一、粥面及び粥鉢の回り水気あるハ
   雨年の兆
  一、粥面引割りたるハ旱魃(
かんば
   つ
)の兆など。(原文)
  風水、蝗(筑前でウンカと思われる)、伝染病の発生の有無まで判定して、公表しています。
  筑前、筑後、肥前のほか豊前を含む旧四国も対象にして、稲、麦作の豊凶に順番をつけているところが近郊の人々の関心を集めているところです。こうした珍しい神事が、いつ頃から始まったか明らかではありませんが、粥を盛る銅鉢に文化2(1805)年の銘がありますので、その以前から催されているのがわかります。農業社会では豊作か凶作かは重大なことだけに、筑紫神への願いも強かったのでしょう。「おかゆ様」と今も氏子たち

 は、この粥卜祭を呼んでいます。かつて露店も並び、早春の産土神の境内はにぎわったようです。 この筑紫神社は、古社だけに長い歴史の変遷がみられます。
  「筑紫宮縁起(
ちくしぐうえんぎ)」と棟札(むなふだ)によると、享徳(きょうとく)2(1453)年、筑紫能登守経門(ちくしのとかみつねかど)と筑紫左近将監俊門(ちくしさこんのしょうげんとしかど)が神殿を建てたが、その後、傷みがひどくなったので、寛文(かんぶん)2(1662)年、村人が力を合わせて再建したことが記されています。現在の社殿は、寛文年間の建築を伝えるもので、享徳年間の社殿跡はその裏にあり、数個の礎石が残っています。
  筑紫氏の衰亡とともに、同社もかつての威勢がなくなっていきました。
  15〜16世紀に活躍した筑紫氏は、その館を現在の筑紫小学校(市内大字筑紫)あたりに設けていたといわれます。『筑前国続風土記』に「村の東の方に小高き山あり。是を城の腰といふ。筑紫氏社司たりし時住せし宅跡なり」とあります。