くま  にしおだ
20.弥生時代の首長墓 隈・西小田地区遺跡
   

  今から約2100年前(弥生時代中期)、北部九州の一帯では、かつてない激しい戦争がくりひろげられていた。むろん外国との戦争ではない。ムラとムラとが水をめぐって、あるいは農地をめぐって、あるいは盟主としての地位をめぐって争ったのだ。幾本もの矢を射込まれる者、短剣で刺される者、首を切り落とされる物・・・。歴史をふりかえってみると、こんな大事件は水稲耕作が始まる弥生時代までには見られなかったことだ。
  中国の歴史書「魏志倭人伝(
ぎしわじんでん)」は、3世紀のわが国の状況を次のように伝えている。
  “倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと100余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあった。現在では魏またはその出先の帯方郡と外交関係にあるのは30国である。
  つまり100余国が30国へ統合されていくその過程こそが、人々がはじめて経験した戦争だったのである。    


▲隈・西小田地区遺跡第13地点(光が丘団地)
23号カメ棺の出土状況

  
▲13号カメ棺に副葬されていた重圏「昭明」銘鏡。直径9.9p。前漢代の宣帝・元帝時代に作られた鏡である。

  鏡は考古学研究の資料として一級の価値をもっている。それは製作時期がはっきりしているからだ。この鏡によって、23号カメ棺が埋葬された上限や、土器形式の分類で弥生中期後半とされる時期の実年代を知る上で重要な手がかりが得られるのである。




▲ゴホウラ貝製腕輪(長さ10.8p)
 

▲鉄戈(長さ39.5p)鉄剣(長さ38p)
いずれも23号カメ棺の副葬品

 昭和62年、小郡・筑紫野ニュータウン(光ヶ丘団地)造形工事に先立って発掘調査が行われ、隈・西小田(くま・にしおだ)遺跡第13地点で弥生時代のカメ棺群が発見された。ここは標高35〜48mの丘陵上にあり、24基のカメ棺群のなかの最頂部で、ひときわ大きな墓壙をもつ中期後半のカメ棺(23号)が検出された。注意深く掘り進んでいくと、棺内から35才前後と推定される男性の人骨とともに、重圏昭明鏡(じゅうけんしょうめいきょう)、鉄戈(てっか)、鉄剣、ゴホウラ貝製の腕輪41個が出土した。この地域を治める首長と思われる人物である。この発見に先立って、同調査区内の第3地点では、戦死者を含むと思われる弥生時代の墓地のなかで中期前半の首長墓が発見されており(ちくしの散歩「筑紫野のクニグニ」)、王の交代があったことがわかる。その王位交代が世襲的になされたものか、あるいは武力の行使によるものかは明らかでないが、副葬品からみるかぎり、新しい首長はより強大な権力をもっていたようだ。
■重圏昭明鏡
  中国前漢代の宣帝(
せんてい)(B.C.74

〜49)・元帝(げんてい)(B.C.49〜33)時代に鋳造された鏡である。
  当時、鏡は権力のシンボルとして重要な意味をもっていた。日光を受けて光り輝く鏡を持つ者は、すなわち太陽の分身を所有する力を備えていると認められたからである。
  おそらくこの鏡は、中国の皇帝から直接下賜されたものではなく、奴国(なこく)王を通じて与えられたものであろう。冊封(さくほう)体制(中国の皇帝が周辺諸国の王に称号を授けることによって生まれる主従関係)の原形をみることができる。
■ゴホウラ貝製腕輪
  ゴホウラ貝は、琉球列島以南のサンゴ礁に生息している大型の巻き貝である。遠く離れた南海にしか産しないこの貝の腕輪が、弥生時代の、特に北部九州の首長たちには好まれたようだ。隈・西小田地区遺跡第13地点23号カメ棺に葬られた人物は、この貝輪を41個(右21、左20)も装着していた。これまでに知られている最多例である。