市指定有形文化財
       
ぶ ぞう じ えん ぎ え ず
   19.武蔵寺縁起絵図 第一幅




※紙本着色 画面ヨコ51.8p
 上下は欠損している。
 
  縁起とは、社寺の起こりや沿革、霊験(れいげん)などの言い伝え、あるいはこれを書き記したものをいいます。奈良時代後期から寺院の増加につれて縁起もふえ、平安時代後期からは絵巻物化されていきました。これが縁起絵図とよばれるものです。室町時代以降、社寺の経済的な基盤が失われはじめると、民衆から寄進を求める宣伝手段として縁起や縁起絵図は重要な役割を果たすようになっていきました。
  全5幅からなる武蔵寺縁起絵図は、室町時代末期から江戸時代初期頃に描かれたとされています。
 また、江戸時代中期以前に定應(じょうおう)という武蔵寺の僧侶によって書かれた「椿花山武蔵寺薬師如来縁起(ちんかざんぶぞうじやくしにょらいえんぎ)」が明治期の写本としてあり、縁起絵図とともに武蔵寺伝説を伝えるものとして貴重です。

 

 

 

 武蔵寺は「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」や「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」にもみえる著名な古代寺院である。境内から大治(だいじ)元年(1126)銘の経筒も出土していることからみて、平安時代後期が武蔵寺の最盛期であったと思われる。
  この絵図の伽藍(がらん)は、おそらく当時を偲(しの)んで描かれたものであろう。    


現在の武蔵寺(筑紫野市大字武蔵)
 


 
以下は武蔵寺縁起絵図第1幅にあたる箇所を抄訳したものです。                   ▼縁起(写)の一部

 薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)のおこないは諸仏にまさり、その光明は万物を照らしている。万物の生気は如来を信仰することによって活発になるのである。しずかにこの仏の教えを考えてみると、ひとたび如来の声に耳を傾けた人は病にかからず、心身ともに安らかになり、いろいろな願いがかなえられるのである。ただ一度の縁(ゆかり)であっても、このようなご利益があるのだから、まして熱心に如来にすがる者は、たとえはかり知れないほどの罪を犯していたとしても、まっとうな人間になれるのである。およそ万民の願いをかなえるため、冥土(めいど)ではまよえる民衆を導き、現世ではさまざまに姿を変えて人々の心身を乱す煩悩をのぞき、重病に苦しむ人には薬を与え、またあるときには勇猛な大力士となって武家を守るなど、すべての災いや苦しみを滅してすみやかに福を授けるのである。このような尊い仏の恵みは万物すべてに及ぶ。まことにあがめ敬うべきものである。
  ここ筑前州(国)御笠(みかさ)郡武蔵(むさし)村の椿花山武蔵寺(ちんかざんぶぞうじ)は、大職冠鎌足(かまたり)公(藤原鎌足)の子孫である藤原虎麿(ふじわらのとらまろ)が創立したものである。虎麿はむかし、天智・天武の二帝につかえ、戦(いくさ)に大きな功績があったので、二帝はしばしば褒美(ほうび)を与

え、虎麿はついに筑前国を治めることになり、同国御笠郡武蔵村須多礼(すだれ)に大館をかまえたのである。その館は、塀や軒が連なり、いく棟にも並んで屋根には瓦がふかれ、庇(ひさし)の角も高くそびえ、そのつくりの見事なさまには目をみはるばかりであった。虎麿はここに住み、昼夜にわたって家来がつかえ、門前は常に市をなすほどの賑やかさである。多くの家来のうち、特に虎麿が頼りにしている75人は近隣の上武蔵、中武蔵、下武蔵の3村に別れて住んでいた。
             

「虎麿長者の碑」と伝えられる自然石の梵字板碑。
武蔵寺の山門をくぐった右横に建っている。
貞和3年(1347)銘と薬師如来を表わす「バイ」が刻
まれている。市指定有形文化財