16.青銅武器の祭り−埋められた銅戈群



隈・西小田地区遺跡第7地点
(光が丘団地)の全景と出土し
た銅戈群
 

  1988年(昭和63年)7月、筑紫野市教育委員会は市内大字隈(くま)で、ニュータウン造成工事に伴う遺跡の発掘調査を行っていた。低丘陵にある弥生時代の集落や墓地の調査をほぼ終え、傾斜の急な山間部へ大型バックホー(土を剥()機械)を移動させた。そこは二つの高い丘陵に挟まれた谷部の奥まった所だった。“地形や周囲の状況からみて遺構はなさそうだ−”しかし、念のため表土を剥()いで遺構の有無を確認しておく必要があった。ところが作業に取りかかって数時間後、バックホーの運転手が叫んだ。「何かに当たった!」担当者が飛んでいくと、そこには10数本の銅戈(どうか)が散乱していた。

  その発見は、全く思いもよらぬ唐突なものであった。その後、廃土のなかから新たに8本が見つかり、合計23本の銅戈が人里離れた山中に一括して埋納されていたことが分かったのである。
  出土した銅戈は、考古学上「中細形銅戈」と呼ばれ、弥生時代中期末(約2000年前)に製作されたと推定される。特徴的なのは、その多くが鋳造したときにできる縁の不要な部分を削り取っていないことと、茎(
なかご)に鹿の絵を陽刻したものがあることだ。このことは銅戈が本来の武器としてではなく、最初から祭器とすることを目的として製作されたことを示している。  

 

 
 

 これまで銅戈が10本以上まとまって出土した例は、春日市小倉遺跡(27本)、同市原町遺跡(48本)、太宰府市片野山(11本)が知られており、この一帯が銅戈分布の中心地と考えられていた。それに今回発見された隈・西小田(くま・にしおだ)地区遺跡(23本)が加わったわけだが、出土状態がはっきりしているのは原町遺跡だけである。つまり、それだけ思わぬ場所から発見されるということだ。埋納される場所は丘陵斜面であったり、原町遺跡のように平坦地であったりするが、いずれにしてもそこは神聖視された特別な場所であったのだろう。何の目的でそのような辺鄙(へんぴ)な場所に大量の銅戈を埋めたのだろうか?
  銅戈群が土中に埋納された時代は、『漢書(かんじょ)』「地理志(ちりし)」に記されているように100あまりに分かれていた北部九州のクニ(複数の村が結合したもの)が平野単位のより大きな「国」へ統合され、「王」と呼ばれる強い権力をもった人物が登場してくる時代であった。
 隈・西小田地区遺跡は奴国(なこく)に隣接した地域にあり、奴国をとりまく有力なクニのひとつであったと思われるが、そのような歴史の胎動のなかにあって、隈・西小田の首長はクニを守り、富を守るため、集団の結束をより強固なものにする必要があった。おそらく首長はクニの代表する祭祀者(さいししゃ)として、祈りをこめて青銅武器を大地の神に捧げたのだろう。
 これまで私たちが弥生時代に対して抱いていたイメージは、稲作によってもたらされた“安定した農耕社会”であった。しかし、調査が進むにつれ、じつは富みの奪い合いによる“戦乱の社会”でもあったことが、最近の調査で明らかになってきている。埋納された青銅武器は、そんな弥生時代の一面を伝えている。