3.原田宿(3)−国境の碑


▲三国境石
           移建された国境石

   筑紫野市原田(ちくしのしはるだ)は小郡市(おごおりし)(旧筑後国)と佐賀県基山町(きやままち)(旧肥前国)に接する“国境の町”です。そのため境界線上には江戸時代に建てられたいくつもの国境石があります。そのひとつ「三国境石」は、当時の三国坂(みくにざか)(現在は消滅)の峠付近に当たる険(けわ)しい山の上にあり、この場所が筑前・筑後・肥後の境となっていました。三国坂を原田側へ下ったところに「従是北筑前国(これよりきたちくぜんのくに)」と刻まれた威風堂々(いふうどうどう)の国境石があります。この文字は黒田藩の書家二川相近(ふたがわすけちか)によって書かれたものです。  


▲二川相近筆の国境石






▲移建前の筑前・肥前国境石

市内馬市に残る筑前・筑後国境石。筑前側は二川相近(1767〜1836)、筑後側は有馬頼徳の筆による

   二川相近の筆による国境石は薩摩街道(さつまかいどう)が通る市内馬市にもあります。さらにその先の国道3号線左側の公園内には、新しく建て直された筑前・肥前の境界を示す国境石が背中合わせに建っています。もとはこの場所から東15mの所にあったのですが、国道3号バイパスの建設によって、やむなく移されました。国境石には、それぞれ「従是東筑前国(これよりひがしちくぜんのくに)」「文化(ぶんか)四丁卯(ひのとう)五月建之(これをたてる)」/「従是西肥前国対 州領(これよりにのひぜのくにたいしゅうりょう)」「文化四丁卯五月建之」と彫り込まれています。これが建てられたのは三国峠付近にあった境界を示す松の大木が枯れたためですが、土地の分け方についてなかなか話し合いがまとまらず、筑前側は原田村庄屋を肥前側は城戸(きど)村庄屋を交渉にあたらせ、2年後に建設されたということです。その交渉が難行したことをうかがわせるかのように両国の国境石は背中合わせに立っています。