2.原田宿(2)−関番所

原田宿(はるだしゅく)は筑前六宿街道(ちくぜんむしゅくかいどう)(長崎街道)の南端にあり、肥前国(ひぜんのくに)と筑後国(ちくごのくに)に接した宿場です。そのため、六宿街道北端の黒崎(くろさき)および唐津街道(からつかいどう)西端の前原(まえばる)とともに国境の三宿として「関番所(せきばんしょ)」が置かれていました。原田関番所は三国坂(みくにざか)を下って南構口(かまえぐち)に入った右側にあり、往来手形(おうらいてがた)(旅行許可と身分証明を兼ねたパスポートのようなもの。百姓町人の場合は庄屋(しょうや)が、藩士(はんし)の場合は藩庁(はんちょう)が発行した)を調べる関番(番所役人)がいました。領内の通行手続きは厳格(げんかく)で、旅人は関番から領内通行許可の添手形(そえてがた)を発行してもらい、藩境を出るときにその添手形を藩境の関番所に渡しました。

▲今も残る関番所裏の石垣。

▲関番が着ていた陣羽織(個人蔵)
   帰路ふたたび入国の際、その添手形に宿代官(しゅくだいかん)の裏書証明をもらって、出国の際には藩境の関番所にそれを返さなければなりませんでした。また、不審(ふしん)な者は国境まで追い返されることになっていました。
  寛政(かんせい)6年(1794)の記録を見ると、原田関番所には、関番所と書かれた定行灯(じょうあんどん)があり、そろいのハッピを着た二人の関番がいて、後ろの壁にはさか鉾(ほこ)3本、ひねり1本、さすまた1本、いが棒1本、寄棒(よりぼう)2本が並べてあり、片隅には薄縁(うすべり)(裏をつけ、縁をつけたむしろで、家のなかや縁側に敷くもの)が2枚と長い幕が備えられていました。文化9年(1812)の原田宿には松尾六右衛門、矢田左作、浦山惣右衛門、山崎又四郎、佐藤夘内、松口和助という6人の関番がいた記録もあります。
  ここに「口上の覚え」と書かれた一通の古文書があります。意訳してみると、次のようなことが書かれています。

 

 


口上の覚え
私は肥前国島原領道崎村の者で、日

何はさておき継ぎ送りをお願いします。なお、薬などは持たせています。
           以 上

筑前国那珂郡春日村庄屋  清次郎
              印

同年2月6日
肥前国島原領道崎村まで
   駅々村々
      御役人中様

  この鉄蔵という旅行者は往来手形を持っていなかったので、春日村(現在の春日市)の庄屋がそのかわりとなる文書を作って本人に持たせてやりました。しかし、本来ならば島原にあるはずのこの文書は、春日村に残りました。本人が村を出るまえに死亡したからです。この文書は原田関番所の役人の目にとまることもなく、今日まで庄屋の家に保管されていました。
  江戸時代でも他藩との往来は頻繁にありました。しかし、庶民の旅は、やはり鉄蔵のように出稼ぎのための旅が多かったようです。

雇い稼ぎのため安政3年(1856)正月に国を出て、2月3日に春日村に来ました。それからはこの村で働いていましたが、病気になってもう動けなくなってしまいました。庄屋さまは早速医師を呼んでくださり、薬までいただきましたが、快復の見込みはありません。また、国へ帰りたくても旅費の貯えがありません。この上さらにお世話になりますが、故郷にいる弟の森右衛門のところまで送り届けてくださるようお願いします。           以上 

肥前国島原領道崎村  鉄 蔵              印
安政7年申(さる)2月
筑前国那珂郡春日村庄屋 清次郎様

  右の通り旅人が村内で病気になり、しばらくは薬などを与えていましたが、なかなか快復せず、前書の通り本人も国元へ送り届けてほしいと願っておりますので、黒田藩の役人の意見を伺って国元へ送り返すことにしました。往来手形は持っていませんが、出身地ははっきりしています。藩からのお達しどおりの方法で送り返えしますので