1.原田宿(1)


 ▲原田宿北構口付近のようすを描いたさし絵。(『田嶋外伝浜千鳥』より)

  筑前六宿(ちくぜんむしゅく)のひとつ原田宿(はるだしゅく)は、筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)と接した国境の宿場です。
  原田宿がいつできたのか、正確にはわかりませんが、『黒田家譜(
くろだかふ)』には寛永(かんえい)15年(1638)1月1日に島原の乱を鎮圧するために冷水峠(ひやみずとうげ)を越えてやってきた松平信綱(まつだいらのぶつな)の一行50騎()1300人余りの軍勢が原田に宿泊したことが記録されていますので、この時にはすでに宿場ができていたものと考えられます。
  原田宿の初代代官(
だいかん)は小河内蔵允(おごうくらのじょう)で、天拝山(てんぱいざん)の植林でも知られる人です。代官所は現在の郵便局の裏手にあたる“お屋敷山(やしきやま)”と呼ばれる小高い丘の上にありました。


▲中央高台が代官所跡。

 




 





北構口付近。右下に代官所が見える。また、構口左横の店は
原田名物の「腹太餅 屋」。三国峠をこえるために腹ごしらえした。
写真右下は、その餅をついたという石臼。伯東寺に保存されている。

筑紫神社入口にある追分石。
「天満宮参詣道」とある。

▲関番所跡に立つ
「原田宿場跡」の碑
  文化9年(1812)9月25日、日本全体の正確な地図をつくるために全国測量の旅を続けている伊能忠敬(いのうただたか)の測量隊が、南の田代宿(たしろしゅく)(現佐賀県鳥栖(とす)市)から北上して原田宿にやってきたときの『測量日記』には、宿場に入ってすぐ右に「口留番所(くちどめばんしょ)」(通行手形を調べる所で関番所(せきばんしょ)ともいう)、その次に「町茶屋(まちぢゃや)」があり、「町役人宇右衛門」の家に小休みしたこと、つづいて右側に「問屋(といや)」(旅行者に馬やかごの世話をする所)、左側に「制札所(せいさつしょ)」 (幕府や藩の法令を掲示する所)があったこと、さらに進んで博多道と長崎街道の追分に出ると正面に筑紫大明神(ちくしだいみょうじん)の鎮守(ちんじゅ)の森があるというようなことがしるされています。
  また、安政5年(1858)に山内陽亭(
やまうちようてい)という原田出身の学者が書いた小説「田嶋外伝浜千鳥(たじまがいでんはまちどり)」には「原田駅家の真景」というさし絵があり、江戸時代の原田宿のようすがよくわかります。